常識破りの蔵

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獺祭といえば、日本酒好きなら知らない人のいない純米大吟醸のブランド。
繊細な技を必要とするため「杜氏の名人芸」とまで言われた大吟醸を、徹底したデータ管理とマニュアル化によって社員の手で再現できる酒に変え、純米大吟醸を広く市場に押し広げてきた。その蔵の経営者の思いを聞いた。

人の手でしかできないこと

招き入れられた獺祭本社の検査室には、各桶の温度や糖度を示すグラフが壁一面に貼り出されていた。データ管理を重視する同社の生命線だ。ところが、製造現場には、意外なほど人の姿が多い。蒸し暑い部屋で、酒米に麹菌を振りかけ、菌を混ぜ込んだ米を丁寧にほぐし、混ぜ合わせる麹造りの光景は、何百年も前から酒蔵で繰り返されてきたそれと変わらない。さらに、削った酒米を水に浸し、引き上げる洗米の工程まで人の手で行われていた。データ管理という言葉からは最先端のスマートな工場が想起されるが、その印象は見事に裏切られた。

「データをとればとるほど、逆に人の手の方がうまくつくれるということがわかってきたんです。これからも人の手に頼るところは、どんどん増えてくると思いますよ」

と白い歯をこぼすのは、同社の桜井博志会長だ。 紺のジャケットに白いパンツ。胸元にはカラフルなポケットチーフ。粋な装いは、長い歴史を持つ蔵元の前当主というイメージには収まらない。

桜井博志

アメリカで仕事をしている時間が多いが、いまでも日本にいるときは、出荷前の最終工程である官能検査に必ず自ら立つという。

「かつて、私たちもロボットの導入を積極的に進めた時期がありました。でも、0.1%の含水率の違いを見極めようとすれば、どうしても人間に頼らざるをえないんです」

麹の具合を見ながら手を入れ、浸水の秒単位を読む。そうした仕事は、いまも人にしか任せられないのだ。

苦肉の策だった高級化路線

同社は、もともと高級酒に注力していたわけではない。

「むしろ苦肉の策でした。高級化を推し進めるしか生き残る方法がなかった」と桜井会長は明かす。

1984年、桜井博志氏が社長を引き継いだ当時の旭酒造(現・獺祭)は、売上高1億円に満たない、地域でも4番手の小さな酒蔵だった。当時日本酒業界は大手メーカーによる全国ブランドの普通酒がシェアを競っており、猛烈な価格競争にさらされていた。加えて日本酒離れの兆候も現れており、同社の売上は10年前の3分の1まで下がっていた。博志新社長は、なんとか立て直そうと値引き競争に飛び込み、卸に頭を下げて回った。しかし、売れ行きは芳しくない。

「一度貼られた『売れない酒』というレッテルを剥がすのは難しかったのです。そこで紙パックのお酒をつくってみるなどあらゆることを試してみました。純米大吟醸もその一つでした」

打つ手がどれも思うような成果を見せないなか、純米大吟醸は徐々に売り上げを伸ばしていった。

「高度経済成長期の頃は、業界も消費者も『お酒は酔えればいい』という認識で、質よりも量が求められました。ところが、焼酎やビールが伸びて、お酒の選択肢が増えると、酔うための酒よりも、味わう酒を求める消費者が増え始めました。資本力のない旭酒造が大手の真似をしても勝ち目はない。そこで、純米大吟醸に特化しようと決めたのです」

桜井氏は矢継ぎ早に手を打った。よい酒米を手に入れるために、地域を越えて生産者を開拓。酒米の最高峰とされる山田錦を直接仕入れた。知り合いを通して地酒を扱う飲食店に置いてもらえたのを機に、東京に販路を開拓。それまでの常識を次々と覆していった。東京でも受け入れられるようにと、酒の銘柄もそれまでの「旭富士」から「獺祭」へと変更した。

契機となったのは1992年に発売した精米歩合23%の「獺祭 磨き二割三分」。それまでの吟醸酒は24%が最高で、それを上回る日本一の「磨き」は、大いに話題を呼んだ。

ピンチを飛躍に変える

こうした取り組みで、獺祭は着実にブランド価値を高めていった。消費者や飲食店から、獺祭がほしいと指名されることも増えたという。

だが、大きな落とし穴が待ち構えていた。拡大路線を続ける桜井氏に異を唱えた杜氏が旭酒造を去ったのだ。

杜氏の頭は酒造りのデータの宝庫だ。彼らが抜けるということは、酒造りのノウハウがごっそりなくなることを意味する。残ったのはわずか三人の社員。しかし、桜井氏はまったく諦めなかった。酒造りを自分で手伝っていた経験から、温度や時間、水分量などのメモを細かくとっていた。それらをもとに作業工程をマニュアル化し、杜氏でも蔵人でもない社員にも酒造りができる体制づくりに挑戦したのだ。

そして、それは見事に成功した。2005年に216キロリットルだった出荷量は、2010年には3倍増の776キロリットルに。以後もマニュアルに沿った設備投資を続け、年五割増しの勢いで出荷量を増やし続けてきた。

システマチックに管理された麹室
木造づくりの酒蔵のイメージとは異なるシステマチックに管理された麹室。黙々と工程を進める従業員のなかには若手も多く見られる。

世界のプレミアムブランドへ

同時に、海外展開も見据えていた。

「最高の米を使い、最高においしい酒を造る」ことを訴え続け、連日試飲会を開き、レストランオーナーやディストリビューターのファンを獲得していった。

ただ輸出するだけではない。2017年にはニューヨークに酒蔵建設を発表、2018年にはパリにバーやレストランを備えた「獺祭・ジョエル・ロブション」をオープンした。2019年には、海外部門の売り上げが国内部門を超えるまでになった。2024年には、アメリカ南部のアーカンソー州で山田錦を栽培し、翌年からは純アメリカ産の日本酒「DASSAI BLUE」も発売に至った。

いまや獺祭は日本酒の輸出量全体の15%を占め、際立った存在感を示している。国内外の総売上高は214億円となり大手メーカーと肩を並べるまでになっている。順風満帆に見えるが、桜井氏はまったく満足していない。

「むしろ、うまく行っていないと感じています。獺祭を世界のプレミアムブランドにしたい。それにはどうすればいいか、次の手を練っているところです」

念頭にあるのはシャンパンだ。シャンパンはもともとフランス・シャンパーニュ地方の特産品であったが、いまではスパークリングワインの代名詞ともなっており、その名は、お酒が飲めない人でも知っている。そうなるためには、いまの10倍は売れていてほしいと野心を覗かせる。

次世代を担う新製品の開発にも余念がない
獺祭ブランドを守る徹底した品質管理とともに、次世代を担う新製品の開発にも余念がない。

2026年2月、驚くべきニュースが飛び込んできた。宇宙ステーションで醸造した獺祭が1億円で販売されたという。ただの話題づくりではない。数十年のうちに人類は月に住むようになり、人が住めば酒の需要が生まれる。そのときのための布石だ。

おいしい酒を届けるため常識を破り続けてきた獺祭。その視線は、すでに次へ向いている。

桜井博志

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獺祭の「感動する酒」はどう生まれるか? | 島津ガスクロマトグラフ70周年記念ユーザーインタビュー

※所属・役職は取材当時のものです。

桜井博志 桜井博志
桜井 博志(さくらい ひろし)

株式会社獺祭 会長。1950年、山口県の酒蔵の長男として生まれる。大学卒業後、西宮酒造(現日本盛)株式会社を経て、1976年、家業の旭酒造株式会社へ入社。父と対立し、1979年、一度同社を離れるが、1984年、父の急逝を受けて、旭酒造社長に就任。純米大吟醸「獺祭」を生み出した。2023年にはアメリカ・ニューヨークに酒蔵を作り、現地の水、現地の米でつくった純米大吟醸「DASSAI BLUE」も世界で展開している。

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