同じように見えるがんでも、その内部には薬が届く場所と届かない場所がある。
そこで何が起きているのか。
かつて工学に憧れた医師が、がん研究の新たな扉を開こうとしている。
「遺伝子の時代」の真ん中で
「新しい学問が始まった。そう感じています」
京都府立医科大学の直居靖人教授は、そう言葉に力を込める。直居教授は、乳がん治療のスペシャリストとして、乳がんの診療と治療法の開発に力を注いできた。複数の遺伝子の情報から、乳がん手術後の再発リスクを予測する手法を開発したことでも知られる。直居教授が「新しい学問」と言うのは、がんの正体に迫り、より効果的な治療を選ぶための、まったく違うアプローチが見え始めたという意味である。

乳がんは、近年罹患者が増加しているがんの一つだ。1970年代には年間1万人台だった国内の罹患数が、現在は9万人を超えている。背景には食の欧米化などが指摘されている。
「私が内分泌・乳腺外科を選んだ2000年前後でさえ、罹患数はすでに70年代の3倍に増加していました。それに比べて乳がんの専門医は一貫して不足している。やるべき仕事があると感じました」
直居教授が内分泌・乳腺外科を選んだ理由はほかにもある。2000年前後、ヒトゲノム計画の進展を背景に、がんの発生や進行に関わる遺伝子の特定が次々と進んでいた。病気の正体に近づき、治療法も大きく変わっていく。そんな期待が医学界に広がっていた。
実際、乳がんの治療もそこから大きく変わっていった。同じ乳がんでも、性質の異なるいくつかのタイプがある。タイプが違えば、効きやすい薬も、効きにくい薬も違う。そのことがわかるにつれて、治療は経験則に頼るものから、遺伝子のサブタイプごとに組み立てるものへと変わっていった。直居教授が乳がんを専門に選んだのは、まさにその考え方が広がり始めた時期だった。
「ちょうど2000年に網羅的遺伝子発現解析により乳がんのサブタイプ分類が発見されたというNature論文に驚いて、私自身も遺伝子の研究にのめり込んでいったんです」
直居教授の名を一躍世に広めたのが2011年に論文発表された「多遺伝子診断法による乳癌術後再発予測法:95GC(gene classifier)」である。95個の遺伝子の発現値を組み合わせ、患者ごとに再発の可能性を数値化するものだ。
「それまでは、がんの再発可能性は“神のみぞ知る”領域で、術後に抗がん剤治療を行うべきかどうか、経験則による慎重な判断が求められました。しかし、遺伝子の解析により3%しか再発リスクがないとわかれば、その人に抗がん剤治療をしなくてもよいかもしれない。オーダーメイドで治療を考えられる。大いに希望を抱かせる結果でした」
さらに直居教授の関心は、外科手術前に行う抗がん剤治療の効果予測へと広がっていった。乳がんでは、手術の前に抗がん剤を投与し、腫瘍を小さくしてから手術に臨む治療法が選ばれることがある。だが、ここでも抗がん剤が効く人と、効きにくい人がいる。効かない投薬を続けて患者を副作用で苦しませたくない。治療を始める前に、その薬が効くかどうかを予測できないか、教授らの研究グループは約1000例に及ぶデータを用いて検証を重ねた。

解析結果に震えた
結果は決して悪いものではなかった。抗がん剤が効くかどうかを、治療前の遺伝子発現から、ある程度予測できることが示された。だが、直居教授はどうしてもひっかかりを拭えなかった。
「遺伝子解析で『抗がん剤が効く可能性が高い』と予測された患者さんのなかで、実際にがんが消えていた人は約40%だったのです。他施設の医者たちは、それでも『すごい研究成果だ』と褒めてくれました。だけど、実臨床では使いにくい。『この薬は40%の確率で効く可能性があります』というのは、効くかどうかわからないと言っているのも同じです」
データを何度解析し直しても、結果は変わらなかった。薬剤は届いているはずだ。同じ遺伝子タイプ、同じステージのがんなら、薬剤への反応も、ある程度は同じになるはずだ。ところが、実際にはそうならない。
病巣の中で、まだ知られていない何かが起きている。何が違うのか。それを見る方法はないのか。
直居教授は、自問自答するなかである装置のことを思い出した。質量分析の技術を使って、組織の中にある物質の分布を画像として描き出すイメージング質量顕微鏡だ。顕微鏡では同じように見える病巣でも、島津製作所の「iMScope QT」というその装置であれば、薬剤や代謝産物がどこにあるのかを見ることができるかもしれない。

直居教授は早速、病巣のサンプルを、同じ内分泌・乳腺外科の加藤千翔助教とともに島津に持ち込んだ。実験を繰り返し、約1年後のある日、分析結果を見て、驚いた。
「本当にブルッと震えました。組織の形を見るHE染色でも、たんぱく質の分布を見る免疫染色でも、ふつうの顕微鏡では同じように見えるがんが、iMScope QTで見ると、がん細胞に対する薬剤の分布に大きな偏りがあることが一目瞭然だったのです。入っていないところは薬剤が効くはずがありません。さらに別の解析で見ると、その場所ごとに遺伝子の発現・変異パターンが全然違っていたんです。ということは、その先にあるたんぱく質や脂質、代謝産物の組成も違うんじゃないか。それが初めて見えてきたのです」
イメージング質量顕微鏡で見える世界には、遺伝子の情報だけではとらえきれなかった、もう一つの複雑さがある。だが、その複雑さを読み解いた先にある、より安全で、より効果的な治療への道を見つけ出したいと直居教授は意気込む。

(画像提供:京都府立医科大学)
工学と医学の間で
「父が半導体研究に携わっていた影響で、幼い頃から工学に憧れていた」と教授は言う。大学進学時は医学部に進むか工学部に進むかでかなり迷ったとも。大阪大学の医学部に勤務していたときは、仕事が終わった後、工学部の研究室のある場所を歩いていた。
「学生時代の同級生が理工系の教室にいたりしますので、いろいろ見て回って。質量分析や光を利用した解析は医療にも応用できそうだなと感じていました」
技術者だった父親から聞いていた産学連携の難しさも、教授のなかに残っていた。理工系の技術を医療に応用しようとしても臨床医は忙しく、なかなか時間を取れない。ならば、自分はその橋を架ける側になりたいと、産学連携のあるべき姿を見据えている。
数学や工学の知見を取り入れ、がんの包囲網が、また一歩縮まろうとしている。
※所属・役職は取材当時のものです。
- 京都府立医科大学大学院医学研究科 内分泌・乳腺外科学 教授直居 靖人(なおい やすと)
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1999年大阪大学医学部卒業。大阪大学大学院医学系研究科准教授、病院教授などを経て、2022年より現職。外科専門医、医学博士。乳がんの臨床と研究に携わり、遺伝子解析による術後再発予測、術前薬物療法の効果予測などに取り組む。近年は質量分析イメージングを用い、病巣内で薬剤や代謝産物がどのように分布しているかを可視化する研究を進めている。
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