生粋の商人が生み出した「人が人を呼ぶ町」のサイエンスパーク

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羽田空港から車で5分。
真新しい建物が連なるサイエンスパークがある。
他の研究都市と異なるのは、いたるところで笑顔と会話が花開いていること。
この町の発展に力を注いできた“町内会長”に話を聞いた。

二代目の決断

自動車工場の跡地を利用した約40ヘクタールの地域に、研究機関や大学、企業、ベンチャー、ホテルなど70を超える機関が軒を連ねる。神奈川県川崎市殿町のキングスカイフロントは、世界最高水準の研究開発から新産業を創出する、日本を代表するライフサイエンスの研究開発拠点の一つだ。

「砂埃が舞うだけで、うち以外何も無かったことを考えると、よくここまで来れたなと思います」と感慨深げなのは、公益財団法人実験動物中央研究所(以下、実中研)の野村龍太理事長。キングスカイフロントネットワーク協議会の会長でもある。

実中研は、マウスをはじめとする実験動物を製薬企業などに提供することを事業としている。医学の発展を目指し、1952年に父である野村達次氏が設立(公益財団法人認定は2011年)。医学部出身の生粋のサイエンティストで、日本の医療、創薬の発展に大きく貢献し、文化功労者に顕彰されている。また、ヒト由来の遺伝子を導入したマウスは、発がん性試験用の標準動物と認定され、世界中から引き合いが集まっている。

公益財団法人実験動物中央研究所(CIEA)
公益財団法人実験動物中央研究所(CIEA)は、動物実験を基本とし、医療・医学に貢献することを目的とした研究所。
世界でも珍しい民間の独立した研究所で、国内外の大学、研究機関をはじめWHOなどとも連携している。1952年設立。

その跡を継いだのが野村龍太氏。幼少期、庭にあった研究所で、ケージの掃除などをさせられた経験から、絶対に継がないと大学ではマーケティングを専攻。しかし、三井物産で商社マンとして世界を渡り歩くなかで、なぜか避けていたはずの医療やバイオ関連の事業と縁が深くなっていく。その目で改めて実中研を見たとき、「魅力的な知財が転がっている」と気づいた。

生まれて初めて父親に頭を下げた。商社マンとして27年、49歳のときだった。「医療の発展には実中研は無くてはならない、なんとかしたい」と思って入所を懇願したのだ。だが、山積みの問題に愕然とする。

「父は研究一筋で、経営もなにもあったものではない。これは大変なことになったな、と頭を抱えました」

野村 龍太

喫緊の課題は、老朽化した社屋だ。設立から50年が過ぎ、施設の傷みは激しかった。徹底した管理が必要な事業で、施設を継ぎはぎで延命していた。いずれ悪影響が出ると考え建て替えを検討したが、代替地探しでつまずいた。実験動物を扱うことがネックとなり、受け入れ先が無かったのだ。

そんな2009年、声をかけたのが川崎市だった。当初、長年の会社生活で行政とはまったく付き合いが無かった野村氏だったが、ある人との出会いで決断した。

「戦後70~80年日本の成長を牽引してきた京浜臨海部の次の50年に向けた再開発の中で、今まで手がついていないライフサイエンスを軸にするというのが魅力でした。なによりも、声をかけてくれた川崎市の担当者が『ここ殿町をなんとかしなければ、次の日本は無い』と熱かった。仕事はやはり人なんですよ」

グランドデザインは無かったが、当時の日経バイオテクの宮田満編集長などブレインも集め、未来のために何ができるか、どうすれば企業や研究機関が集まってくれるかを徹底的に話し合った。しだいに応援者も増え、資金調達も目途が立ちはじめた。

しかし、時代に翻弄される。27億円の資金調達予定が事業仕分けで2億円に減った。川崎市が銀行に働きかけてくれたが、その後も震災、先代の逝去と不幸が続く。やっと這い上がっても、何もない不便な立地に進出しようという機関はなかなか現れず、「二代目の暴走」と揶揄された。ここまで来ると諦めてしまいそうだが、野村氏はむしろ、不利な状況を逆手に取る戦略を打ち出した。

『嫌なこともっと来い』

神奈川県、川崎市、横浜市とチームをつくり、国際戦略総合特区として指定を受けた。ほかにも手を挙げている自治体があったが、「日本のバイオイノベーション・ライフサイエンス事業のショーケースという美しい絵は、真っ白な画用紙があってこそ描ける」という野村氏の言葉が、審査員たちの胸を打った。

「何も無いということは、真っ白ということ。絵を描くなら、真っ白な画用紙の方がきれいな絵が描けるという論法です。私はいつも、不幸は辛ければ辛いほど、将来おもしろい話になると思っています。『嫌なこともっと来い』精神でいると、そのうち不幸の神が逃げていくんです」

野村 龍太

国立医薬品食品衛生研究所の誘致に成功すると、これが呼び水となって見学に来る機関が一つ二つと現れ始めた。野村氏は自らガイドを買って出て、将来像を何度となく語った。その熱意が届き、次第に立地機関が増え始めた。

そんななか、野村氏は気づく。
「市中心部からも遠いし、食事場所も少ない。同じ悩みを持つ者同士、『お昼ご飯、どうします?』とか、『一緒にタクシー乗りません?』なんて声をかけると、どんどん仲良くなっていくんです。あ、これだなと」

イノベーションには連携が必要で、いたるところで行われている。だが商社時代、プロジェクトが雲散霧消していく様を目の当たりにしてきた。それは音頭取りばかりが先行し、肝心の人同士の連携ができていなかったからではないのか。そう気づいた野村氏は、ここでも弱みを逆手に取った。

「殿町は他のサイエンスパークと比べて圧倒的に小さい。歩いて回れるんですよ。であれば、お隣さんと顔の見える関係をつくって活かしたほうが良い」

立地機関でバーベキューやボウリング大会、清掃活動を実施。なによりも住民の役に立つことを考え、夏休みの宿題もできて楽しめるサイエンスイベントも開催した。

街のイラスト

「子どもたちが目をきらきらさせて帰るんです。それを見て私たちが元気になる。ネットワーク協議会の打ち上げも誰でも話せる工夫をして、まるで同窓会のような雰囲気ですよ。そういう関係性をつくることで、誰がどこで何をやっているのかがわかるようになりました」

まさに魂のこもった町づくりだ。その野村氏の人柄に、一人また一人とつながっていく。顔馴染みになるにつれ、『お宅の設備を貸してもらえない?』、『アイデアを思いついたんだけど協業できないか』といった会話が聞かれるようになってきた。

「日本では競うのではなく、連携して世界で戦うのです。次は成果を出していく番です」と笑みをこぼす。

商いの本質

野村 龍太

島津製作所も2023年1月、Shimadzu Tokyo Innovation Plazaをオープンし、殿町の一員となった。殿町の“町内会長”として手弁当で知恵を絞り、汗を流してきた野村氏は「この町が盛り上がってくれたら、という思いだけでした」と振り返る。そして、これこそが商いの本質だとも語る。

「商いって、見返りを求めるものではないんです。みんなのためにと動いていたら、いつか仕事につながっていき、感謝する。そういうものじゃないでしょうか」

厳しいビジネス界で世界を渡り歩いてきた立案遂行能力と利他の心。生粋の商人は、多くの人を巻き込んで「美しい絵」に、新しい色を加え続けている。

※所属・役職は取材当時のものです。

野村 龍太 野村 龍太
公益財団法人 実験動物中央研究所 理事長野村 龍太(のむら りゅうた)

1953年、東京生まれ。1976年、慶應義塾大学商学部を卒業し、三井物産株式会社入社、医薬、医療、バイオ関連商品を担当。東京、大阪、米国ニューヨーク、ドイツ、シンガポール等で営業業務と役員業務秘書等を経験し、シンガポールにて島津製作所とのバイオ関連のジョイントベンチャーにも参画。バイオ事業の責任者を最後に2003年退社し、同年、公益財団法人実験動物中央研究所に入所。専務理事を経て、2013年より理事長。現在、キングスカイフロントネットワーク協議会会長、藤田医科大学客員教授。

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