シリーズ島津遺産

“二人の源蔵”が築いた日本近代科学の礎
島津製作所の原点となった理化学機器製造の歴史的経緯とは?

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近代科学を根付かせた理化学器械
100年先を遠望する政策のもと、初期の島津製作所は教材となる理化学器械の製造に挑んだ。

西欧で生まれた近代科学

科学は、「なぜ」という問いかけに対する答えの追求であるといわれる。

サイエンス(Science)の語源は、ラテン語で「知る」を意味する「Scire(スキーレ)」。その言葉の成り立ちからもわかる通り、科学は自然や宇宙の理を理解しようとする行為を指している。

かつて我々の祖先は、日が昇り、星が巡り、雨が降り、雷が鳴るといった身の回りに起こる自然現象を、あるがままに受け止めていたはずだ。時代や地域によっては、その一つひとつの現象を、神の行いと怖れ、祈りを捧げていた。

しかし、なぜそうなるのかと疑問を覚え、探求する者が現れた。なぜ、いくつかの星は軌道を逆行するのか。なぜ、りんごは地面に向かって落ちるのか。ギリシア哲学の遺産でもある、原理を追い求める姿勢の上に、飽くことない思考や実験、観測を繰り返した結果、その現象を規定する理論にたどり着く。その積み重ねが、ヨーロッパにおいて、近代科学という大きな財産を生み出したのだ。

さらに、科学は、技術と結びつくことで、その格段の進歩を促した。火薬が生まれたのは9世紀の中国とされているが、西欧に伝わると、その後発見された運動力学の緻密な計算のもとに、大砲を運用する技術が生まれ、戦場の光景を大きく変えてしまった。気体の体積が圧力に逆比例するというボイルの法則が発見されたのは1662年だが、それから100年も待たず蒸気機関が発明され、産業革命を呼び込むこととなった。

殖産興業の担い手を育成せよ

1853年、日本に黒船が来航したとき、巨大な船を推進させる蒸気の力と、正確で破壊力のある大砲の威力を目の当たりにして、人々は大いに驚いた。それは、まさに西欧の科学技術の一つの到達点でもあった。黒船の威容にたじろいだ幕府、薩摩、長州では、科学技術をものにして国力の増強を図らなければ、国が立ち行かないとの声が急激に高まっていく。その声は鎖国から開国へ、さらに明治維新へとつながっていった。

明治政府は、「富国強兵・殖産興業」とのスローガンを立て、科学技術の移入を急いだ。外国から工業機械を購入し、大量の留学生をヨーロッパへ送り込むとともに、外国人教師を多数雇い入れた。江戸時代、長崎で細々と行われていた外国人による科学教育が、組織的、大規模に行われるようになったのである。

島津製作所改組40年記念誌より
写真は1957(昭和32)年、島津製作所改組40年記念誌より。「島津の理化器械は80余年前の創業当時から製作され、我が国最古の歴史をもち、社業の根幹機種として発展進歩し、国内需要の80%以上をみたし、その名はひろく世界的である」と解説している。

その一端に島津製作所も関わっている。島津製作所の創業者である初代島津源蔵は、仏具職人の次男として生まれ、21歳で分家、開業した。その8年後に明治維新が起こると、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の波が押し寄せ、本業である仏具への注文が激減した。だが、すぐにそれに変わる新しい波がやってきた。源蔵が開業した京都木屋町二条周辺は、西洋の最新技術を導入した産業施設が多数設立されていた。いわば「木屋町バレー」である。

源蔵は一帯に満ちる西洋科学の香りを感じながら、技術導入の拠点であった舎蜜局(せいみきょく)(工業試験場)へ足繁く通い始めた。そこで理化学の講座を受講し、実験への参加を重ねていたところ、モノ作りの腕を見込まれ、外国製の器械の修理や整備の仕事が舞い込み始める。その依頼に応えながら、源蔵は外国製品の構造やその裏にある理論を学び取っていった。

全国の学校に届いた理化学器械

島津製作所改組40年記念誌より
1882年(明治15年)に島津製作所が発行した日本初の製品カタログ。約110点の物理器械を掲載している。

技術を導入するだけであれば、海外から製品を購入したり、技術者を雇い入れるだけでもよかったはずだ。だが、明治政府はさらにその先を見据えていた。科学で技術力を強化できることを理解していた政府は、学制実施に伴う教育振興の要項の一つに自然科学を加えた。西欧で生まれ育まれた科学そのものを移植し、草の根レベルで浸透させようと画策したのだ。

だが、まったく科学的な素地をもたない人々に対して、いくら書物で科学理論を説いても、理解できるものではない。科学によってもたらされる、ものの変化や動き、目に見えないものが見えるといった「科学の成果」の存在を実体験として見せられ、そして自らの手で操作してその再現実験ができる理化学器械が必要不可欠だった。しかし、外国製の理化学器械は非常に高価であり、修理の対応も難しく、誰もが触れることができる存在ではなかった。そこで、源蔵は、蓄えた知識をもとに、理化学器械を自ら製造し、教育現場で身近な存在とすることを決意する。明治8年、ここから島津製作所がはじまった。

もっともその作り方を知るものは周りにはいない。海外から取り寄せた製品カタログの図版だけを頼りに、源蔵は苦心しながら独学で製作していった。

感応起電機
二代源蔵が15歳のときに完成させた感応起電機。高電圧を発生させる器械で、当時「島津の電気」として有名だった。

ポンプの力で真空を作り、音が伝わらなくなる様子を観察できる装置。手回しで静電気を起こし、スパークを発生させることで電気の存在を目に見えるようにした装置。創業の地にある島津製作所創業記念資料館(国の指定文化財)には、初代源蔵と、その意志を強く受け継ぎ、のちに「日本のエジソン」と称され、十大発明家にも選ばれた息子、二代源蔵が製作した理化学器械が多数収蔵されている。それらは京都のみならず全国の学校へ届けられ、若者らの心に鮮烈な印象を残し続けた。そして科学に興味を抱き、身近な現象に「なぜ」「どうして」と問いかける科学的思考を身につけ、その道を志す人間を多数輩出することにつながった。そうした人材が、現代に至る日本の発展の礎を作ったことは疑いようがない。

もともと日本人は、稲作や漢字、儒家思想や仏教など、外国の文化を学び、自国に取り入れてきた歴史がある。出来上がったものを切り花のようにもってくるだけであれば、その文化の浸透は簡単なものではなかっただろう。だが日本では、それらを受け入れ、尊敬し、さらに自分たちならではの文化に育てることに情熱を傾け、実現していくという経験を繰り返してきた。その経験があればこそ、科学という文化を異質なものとせず受け入れ、短期間で移入できたと考えることもできるだろう。
今日、毎年のように自然科学分野で日本人のノーベル賞受賞者が出ている。それは技術のみならず、科学を学び、発展させることの重要性がしっかりと日本の土壌に根付いていることの証左だ。

二人の源蔵がこの様子を見ることができたら、どう言うだろうか。

感応起電機
※ 歴史的資料となりえる古い島津製品で、お譲りいただけるものがございましたら、島津製作所創業記念資料館までご連絡ください。
(電話:075-255-0980)

※所属・役職は取材当時のものです

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