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たくさんの「好き」から本気で目指したい夢へ
宇宙飛行士という夢を実現した向井千秋さんが描く「宇宙で暮らす」時代

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アジア人初の女性宇宙飛行士として、スペースシャトルに2回搭乗し、ミッションを経験した向井千秋さん。
その後も国際宇宙大学や東京理科大学で教鞭をとり、スペース・コロニー研究センターの設立など精力的に活動している。
医師でもある向井さんが、宇宙飛行士として経験したもの、今後大きな進展が予想される宇宙開発の展望などについて聞いた。

当直明けに読んだ新聞記事がきっかけに

私が宇宙飛行士を目指すようになったのは、ひょんなことがきっかけでした。1983年の12月、当時外科医として病院に勤めていて、当直明けに新聞を読んでいたら宇宙開発事業団(現在は宇宙航空研究開発機構)の宇宙飛行士募集の記事が載っていたんです。パイロットの募集かなと思ったら、科学技術や教育の分野で活躍する人を求めていると書いてあって、専門分野で3年以上の実務経験があることが条件でした。

その頃は、飛行機で海外旅行に行くことは普通になっていましたが、それよりもさらに上の宇宙にまで生活圏や仕事の場を広げていけるのだと、感激屋の私は心を動かされました。しかも、まだ男女雇用機会均等法が施行される前にもかかわらず、「男女問わず」と書いてあります。当時、労働基準法に基づく母性保護で、女性への残業規制があったため、テレビの女性キャスターでも22時以降の番組は担当できなかった時代でした。医師はそれが適用されない職種で、私も当直勤務などもしていたので、普段からあまり意識していませんでしたが、今考えれば先駆的な募集だったと思います。

そのときの私はちょうど、チーフレジデントが終わり、学位論文をまとめる時期だったので、患者さんを担当しておらず、時間に融通が利く立場だったことも幸いしました。まずは英会話を身に付けなければと、時間を作って英会話教室をいくつも掛け持ちして通っていたのを覚えています。どんな人が選ばれるのか、どんなスキルが必要なのかもわからないので、やれることは全部やろう、と毎日駆け回っていました。

子どもの頃から目指していた医師の道へ進む

そもそも、医師になりたいと思ったのは、弟の足が悪くて、そういう人の役に立ちたいと考えたのがきっかけでした。小学校4年生のときの作文にはすでに、「将来は医師になりたい」と書いていました。一度、そうやって目標を立てると、「そのためには医学部に行かなければならないから、医学部への進学率が高い東京の高校へ行こう。公立だから東京に住まなければ」と、目標に向かってするべきことを逆算し、具体的に実行していくような子どもでした。

親もそれを応援してくれたので、中学2年生のときには知り合いのところに下宿させてもらい、受験に向けてとにかく必死で勉強しました。得意な科目ばかりじゃないのでとても大変でしたが、「医師になる」という目標に向かってする努力は楽しいんです。だって、一歩ずつ目標に近づいているって感じられるから。受験も、医師免許の試験も、そうやって乗り越えて、やっと医師になれた時は希望に燃えていましたね。

よく、「医師と宇宙飛行士、2つも夢を叶えてすごいですね」と言われることもあるのですが、実はあまりそういう意識はありません。子どもの頃の夢は100も200もあって、ケーキ屋さんにもなりたかったし、その頃ドラマで流行っていたフライトアテンダントにも憧れていました。その中でも、人の役に立つことの喜びや未知の世界を切り開く面白さに魅了され、実現させる情熱を持てたのが医師であり、宇宙飛行士でした。今だって、夢はまだまだいっぱいありますよ。

帰還した地球で驚いた意外なこと

向井 千秋

宇宙には2回も行けましたが、実は本当に自分が行けるとは思っていませんでした。最終選考の前の段階の7人に入ったときも、女性は私1人だし、みんな能力もあって面白い人たちだったので、誰が選ばれてもおかしくないと思っていました。そこから選ばれた3人の宇宙飛行士の中に入って、ようやく実感が湧いてきたくらいです。

実際に同じスペースシャトルに乗った7人のクルーの中でも、女性は私1人だけでした。でも、私自身はそのことを意識したことはなくて、ほかのクルーのほうが気にしていたみたいでしたね。着替えるときは、私がそのスペースに来ないか見張りを立てたりしていたようで、一度、宇宙船内の天井に張り付くようにして研究資料をまとめていたら、みんなは気付かずに着替えをはじめて、「チアキが……」と言うので「私がどうかした?」と声を掛けたら「そこにいたのか!」ってみんなびっくり。私は「気にしないから大丈夫だよ」と言ったのですが「僕たちが気にするんだ」と笑われました。

宇宙に行くと必ず聞かれる定番の質問に、「何に感動しましたか」というものがありますが、私が心から感動し、一番面白いと思ったのは、地球の碧さでも、国境が無いことでもなく、重力の存在でした。例えば、「本を置く」という言い方をしますが、無重力空間では「置く」という行為は成立しません。どこかに「収める」か「引っ掛ける」ことになります。そもそも重力が無いと本はページがお互いの作用と反作用で開いてしまうので閉じることもできません。無重力に感覚が慣れていると、物が落ちるという現象も、物が地球の中心に向かって「吸い寄せられている」ように見えるんですよね。それが面白くて、帰還から数日間は、周囲から心配されるほどいろんな物をわざと落としていました。

さきほどの「置く」とか、山に「登る」とか実が「落ちる」という表現もそうですし、「座る」、「歩く」などの動作も重力を利用しています。宇宙ではそれらの動作はなく、移動したいときは反動を利用します。なので初めて宇宙から帰ってきたとき、車に乗ろうとして上半身をかがめたあと、ついついそのまま座席にダイブ。足を前に出して体を支えるという動作を忘れてしまっていたんです。

でも、こういう不思議な感覚は2~3日しか続かずに慣れてしまうんです。それがわかっていたので、2回目の搭乗では、「またあの感覚が味わいたい」ということが一番の楽しみでしたね。地球上で、重力を前提にした“重力文化”の中で生活しているからこそ、それが文学の表現となり、地球で暮らすための科学や産業の発展にもつながっている。それを1回目の搭乗で感動できたことは、本当に感慨深い経験でした。

“宇宙で暮らす”時代を見据えた研究開発に着手

実は3回目も行く気満々だったのですが、コロンビア号が事故で帰って来ないという悲しい出来事があり、そのうえ実験機構もなくなってしまいました。どうしようかと考えているときに、フランスにある国際宇宙大学から声が掛かり、宇宙ライフサイエンスや、宇宙飛行士としてのオペレーションなどを教える客員教授として、5年ほど教壇に立ちました。

その後、2007年に宇宙ステーションがオープンしたのに合わせ、宇宙航空研究開発機構が宇宙医学生物学研究室を立ち上げるために日本に戻ってきました。今所属している東京理科大学に来たのは2014年のことです。本学には宇宙学部はありませんが、理工系の総合大学として異分野を「宇宙」という帯で束ねたいと思っています。

これからは“宇宙で暮らす”時代になります。ロケットで“宇宙に行く”技術だけでなく、暮らすための「衣食住」に関する技術が重要になってくるわけです。そうなると、ソーラーでエネルギーを生み出す技術や空気や水をきれいにする技術、それに食料を生み出すスペースアグリ技術など、様々な分野の研究が“宇宙で暮らす”という目的に向かって大きな意味を持ってきます。宇宙開発の裾野はすごく広いので、多くの人が今研究している自分の専門分野を活かして活躍できるんです。

2017年にはスペース・コロニー研究センターを設立し、宇宙に長期滞在する際のクオリティ・オブ・ライフ(QOL)を高めるため、従来の研究分野を横断し、大学だけでなく企業の方々にも協力をいただきながら研究開発を進めています。

そして、宇宙で暮らすための技術は、実は地球での生活を豊かにすることにも役立ちます。エネルギーや食料を生み出す技術は日本のように資源が限られる国にとっては、大きな力になるはずですから、ここでの研究開発で得られた成果を社会的に実装することも今の大きなテーマです。

「好きなこと」をたくさん見つけて欲しい

向井 千秋

私は今、東京理科大学の特任副学長として、「理科大はもっと楽しく、エンターテインメントに」と考え、おもしろいと思えることを多く体験し、好きなことを増やせる環境を目指しています。宇宙学部がなくても、東京理科大が得意とする研究のアウトプットを「宇宙で快適に暮らす」に設定し、多くの研究者が一緒に目指せるようにしているのもその一つです。

若い人には、一つでも多く「自分の好きなこと」を見つけて欲しいですね。私も好きなことを見つけたからこそ、医師と宇宙飛行士という夢を実現した今があります。本当に実現したい夢が見つかると、人はそこに向かって自然と準備をし始めるものです。夢を夢で終わらせないために、人生を逆算して準備していく。そして、本気であればあるほど、その準備は苦ではありません。

私は子供のころから、本当にたくさんの「好きなこと」を見つけることができました。そう育ててくれたのが母で、自由な発想で夢をはぐくむことができるよう、私という一人の人間を理解し、支え、見守ってくれました。だからこそ、なんでもおもしろいと興味を持ち、たくさんの「好き」から本気で目指したい夢にも出会えたのだと感謝しています。

好きなことを見つけるのは自己実現への第一歩です。そして教育は、自己実現のための重要なツールなんです。日本は誰でも教育を受けられる恵まれた環境があります。また、夢を持ち、熱意を持って行動を起こす人には、自然と助けてくれる人が現れ、チャンスが生まれてきます。ぜひ好きなことをたくさん見つけて、そしてその熱意を次の世代に還元していって欲しいです。

宇宙旅行のフライトアテンダントに

そんなに遠くない将来、宇宙ステーションでの長期滞在だけでなく、そこから月や火星などに行けるような時代になります。NASAは2024年までに、再び月面に人を送り込むことを掲げたアルテミス計画を進めています。アルテミスとはギリシャ神話に登場する月の女神の名前で、アポロの双子。すごく良いネーミングですよね。私は高校生のときに人類初の月面着陸をラジオで聞いていましたが、今度は女性や、もしかしたら日本人が月面に立つ姿を映像として目撃できるかもしれません。

また、アルテミス計画でも月周回軌道の有人飛行が計画されていますが、それよりも早く民間の宇宙旅行が実現するかもしれないですね。月周回軌道でしたら5~6日なので、観光旅行としてより身近に感じられますよね。

ただ、今の宇宙食はまだ「また食べたい」と思うような味ではないので、観光として考えると「あそこの駅弁を食べたい」というのと同じように「地球を見ながら食べたあの味をもう一度食べたい」と思ってもらえるものでないと楽しくないので、そういう意味でも食の研究は大切だと思います。

宇宙旅行が実現したら、私はフライトアテンダントとして飛んでみたいですね。そうすれば子どもの頃の夢がまた1つ実現することになるのでワクワクします。

※所属・役職は取材当時のものです

向井 千秋 向井 千秋
東京理科大学特任副学長
スペース・コロニー研究センター長
向井 千秋(むかい ちあき)

1952年群馬県館林市出身。慶應義塾大学医学部を卒業後、外科医に。85年に旧宇宙開発事業団の宇宙飛行士に選出され、94年にスペースシャトル・コロンビア号にアジア人初の女性宇宙飛行士として搭乗。98年にも同ディスカバリー号に搭乗し、宇宙空間での実験などに従事する。国際宇宙大学客員教授、宇宙航空研究開発機構宇宙医学研究センター長、日本学術会議副会長などを経て、2015年に東京理科大学副学長に就任。16年には同大学特任副学長となり、17年からはスペース・コロニー研究センター長も兼務。実弟は釣り師のヒロ内藤氏。

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