現役の医師でありながら作家でもある夏川草介さん。
医療の現場に立ち続けてきたからこそ深まった、自身の哲学とは。
執筆は自分の悩みを整理する作業
人の命を定めるのは、神様の領域。医者にできることは限られているんだ―。
それでも“人の領域”を放棄せず、力を尽くし患者に寄り添う医師たちの姿を描いてベストセラーとなり、映画化やドラマ化もされた小説『神様のカルテ』。17年前にこのデビュー作が生まれたいきさつを、著者の夏川草介さんはなつかしそうに振り返る。

「あの作品を書いたのは、消化器内科医として信州の病院に勤務して5、6年目の頃です。あまりの忙しさに体調を崩した私を妻が心配して、仕事とまったく違うことをしてみたらどうかと。しかも、私がもともと本好きということもあり、自宅でできて、かつ、いつ中断しても差しさわりないものとして、何かを書き留めることを提案してくれたのがきっかけでした」
何も決めずに思い浮かんできたことを書き始めると、登場人物が次々と現れては動き出し、物語を紡いでいった。それが意図せず、小説という形になった。
「あの頃、救急外来に搬送されてくる高齢の患者さんを診ていて、何かが違うという思いがあったのですが、その違和感の正体がわからなかったんです。でも、書き終えた後、寝たきりの患者さんに人工呼吸器をつなげるという治療に対して、どこかに拒絶感があったんだと気付きました。私にとって、書くことは、自分の悩みを自分で整理する作業だったのだ、と後々思いました」
書き上げた作品を読んだ夏川さんの妻は、夏川さんには言わずに小学館の文庫小説賞に応募。デビューへとつながった。その後も本業の医師を続けるなかで、壁にぶつかったり、大きな悩みを抱えたりしたときに、次の作品を書き始めるというスタイルが出来上がっていった。
“大狸先生”との出会いで進むべき道を知る
現在も消化器内科医として患者と向き合いながら忙しい日々を送る夏川さん。医師を目指したきっかけは、高校時代に被災した阪神・淡路大震災だった。大阪にある実家近くの塀が倒壊。一緒にがれきを片づけていた父親が、ふと、もらした「自分が医者だったら、こんなことだけじゃなくて、もっと誰かの役に立てたのに……」との言葉が頭の片隅に残り、ならば、と大学は医学部に進んだ。
専門を絞り切れないまま卒業したが、研修医時代に大切な出会いに恵まれた。

「私の指導医が、困っている人がいたら手を差し伸べるという素晴らしい先生でした。その先生が消化器の専門医だったため、私も迷わず消化器内科に進むことを決めました」
その指導医は、『神様のカルテ』に登場する地域病院の消化器内科の部長「大狸先生」のモデルとなっている。
「善」とは何か
夏川さんは、『スピノザの診察室』とその続編となる近著『エピクロスの処方箋』で、京都を舞台に地域医療に携わる医師たちの姿を描いた。主人公のマチ先生こと雄町哲郎は、一人の患者の急性期から終末期までを担える内科医。実際に夏川さんが提唱し実践している医療の体現者でもある。しかし、この二作のメインテーマは医療ではない、と夏川さんは説明する。
「幸せとは、善とは何か。医療という切り口を用いつつ、現時点での自分なりの哲学を世の中に提示したいとの思いで書き上げました」
今作を著す原動力となったのが、世の中全体の人間関係が悪化してきているのではないか、という憂いだ。
「医療の現場でも、以前なら患者さんは若手のドクターにも『よろしくお願いします』『ありがとうございました』と言ってくださいましたが、いまは診察室に入ってくるなり、『お前、何年目だ』『専門医の資格を持っているのか』と言われて驚くことがあります。しかもその傾向が年々強まっているように感じます」
人々を攻撃的にさせているものは何か。夏川さんは、自分を中心に置き過ぎる風潮にも原因があるのでは、と分析する。そして、多くの患者を看取るなかで、それは決して幸福にはつながらない、とも確信している。
「余命数か月となった患者さんは、大きく二つのタイプに分かれることがあります。一方は、世の中への恨みごとばかり言って、一人ぼっちで過ごすタイプ。もう一方は、人が自然に集まってきて、ときには笑顔で過ごすタイプ。なぜこんなに違う人生なのか。よく考えるんです」
長年、患者を診つづけてきたなかで、人が集まってくる人には、共通点があることにも気が付いたという。
「人を大切にするという感覚を持っていることです。患者さんで亡くなる数日前になっても私の晩ごはんの心配をしてくれたおばあちゃんがいたのですが、その方のまわりはみな、笑顔でした」
まわりを笑顔にする。これこそが「幸せ」であり、「善」ではないだろうか。これが現時点で夏川さんが出した、哲学的な問いへの答えだ。
まわりの人を幸せにするために
その上で、夏川さんは作家として人の「善」を描くことにこだわり続けたい、と言葉に力を込める。

「私はコロナ禍のとき、人は環境によって善にも悪にも簡単に変わることを目の当たりにしました。人間の本質は、善か悪かの二元論では語れないのです。なのに、いまはあまりにも悪に偏った表現があふれています。だからこそ、私は次の世代の人たちが人間を信頼できるよう、文学を通じ善について真剣に描きたい。私の作家としての仕事は、善とはこういうものではないかと、人の心を動かす力のある『物語』を通じて提示することだと思うのです」
では、医師として患者の幸せのためにできることとは。
「敢えて言えば、『人は一人では生きることも死ぬこともできない』と本人に伝えていくことでしょうか」
とくに最期をどう迎えるのかについて本人だけでなく、まわりで支えてくれる人たちにも理解してもらうことを大切にしている。
「『自分の死に方は自分で決めたい』『最期は自宅で』という言葉を最近よく耳にしますが、何もかも自分一人で決められると思うのは危険です。人は、一人では死ねないのですから」
「最終的には私自身が穏やかに診療をしたい、ただそれだけかも」と笑って話す夏川さん。これからも医師として、人間として、患者に向き合い、寄り添いながらその道を歩んでいく。
※所属・役職は取材当時のものです。
- 夏川 草介(なつかわ そうすけ)
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1978年大阪府生まれ。信州大学医学部卒業。長野県にて地域医療に従事。医学博士、消化器病専門医、消化器内視鏡専門医、肝臓専門医。2009年『神様のカルテ』で第10回小学館文庫小説賞を受賞しデビュー。コロナ禍の最前線に立つ現役医師としての経験をもとにつづったドキュメント小説『臨床の砦』、京都本大賞を受賞した『スピノザの診察室』など著書多数。
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