博士号を手に入れたいー。
研究開発に生きることを決意した者にとって渇きにも似た憧れが、博士号にはある。その声に応えようと、島津製作所は社員でありながら博士号取得に専念できるREACHプロジェクトを始動させた。
3人のREACH経験者が、率直な思いを吐露する。
REACHプロジェクトとは
博士人材への期待
近年、企業における博士人材の必要性が声高に唱えられている。研究活動を通して論理性や批判的思考力、困難に挑戦し解決する力を鍛えあげた博士人材は、複雑化、多様化する時代に有効な解をもたらすとの期待がその背景にはある。
研究者同士の間でも博士号は最先端の知見に基づいた論理的な対話のできる相手という、言わば“お墨付き”だ。企業内研究者にとってもその肩書きは大きなプラスとなる。
島津製作所では博士課程を修了した人材採用にも注力しているが、修士を終えたら早く就職したいという思いなどから博士号取得を希望する学生は増えておらず、思い通りには進んでいない。そこで同社では、2021年、大阪大学との協働で博士号取得を目指すREACHプロジェクト※を開始。大阪大学内に設置されている大阪大学・島津分析イノベーション協働研究所に、社員を業務派遣し、同社が今後事業拡大を目指す分野の卓越研究者の研究室において博士後期課程の学生として、共同研究に専念する。これまで11人が参加し、うち一人は博士号を取得し帰任している。
REACHを経験した社員は自身の成長とキャリア展望の拡大を実感。大学側にとっても、社会人が研究室に同じ立場でいてくれることが学生の手本になっていると評価を得ており、プロジェクトは上々のスタートを切った形だ。
現在、島津製作所は博士号取得支援制度の強化を進めており、博士人材を拡充させ、国内外の優れた研究者とのネットワーク構築に活かしていく構えだ。
※ 当初の名称は「REACHラボプロジェクト」。2023年に内容を発展させ、現在の名称となる。
妥協を許さぬ覚悟
「ずっと研究していたかった。島津を選んだのは、それを認めてもらえるからでした」
入社4年目の中塚遼治は、入社した動機をこう語る。
大学の修士課程では物理学の流体力学を学んだが、とくにそれを突き詰めたいというわけでもなかった。研究そのものが大好きで、就活時は、分野も問わず。研究室に配属されるのであれば、どんな企業でもよいとさえ思っていた。
「ゼロから実験の計画を立て、誰もやっていない方法を次々と試していく。そのプロセスが好きなんです。成果が出た時の気持ちよさは、他では味わえません」
入社1年目、配属先で質量分析計の感度を上げる技術の開発に携わった。1年がかりの研究で、装置の感度は数倍向上し、その技術を製品化する目途も立った。ディスカッションと実験を重ねゴールに辿り着く。まさに望んでいたことができた。
「アウトプットが出せたとき、先輩がとても喜んでいる様子を見て、あっ、すごいことをやったんだなという実感が湧いてきました」と振り返る。
REACHは3期目から公募制となり、中塚はためらわず手を挙げた。
「将来は海外で働きたいという思いがずっとありました。研究者は世界中にいて、協働したり、競い合って、お互いを高め合っています。日本にいて研究しているだけでは世界の舞台に上がることもできないんです。研究室には海外からの留学生も多く、日常的にグローバルを感じられます」
海外のカンファレンスでは博士号を持っていないと、議論の場に立つことさえできないことが多いという。研究に生きる価値を見出す中塚にとって、博士号は最低限のパスポート。業務として博士号の取得を目指せるREACHは、まさに願ったり叶ったりだった。
REACHには、2023年4月に加わり、遺伝子治療薬を分析するためのアプリケーション(手法)開発に携わっている。研究は、大阪大学をはじめ、多数の大学、企業と共同で進められており、先天性疾患に苦しむ人たちにとって大きな福音をもたらす可能性もある。
「ここにいると、自分がやりたくてやっているのだという気持ちがふつふつと湧いてきます。スキルだけでなく、意識の面でも自分が変わってきたのを感じています」
と目を輝かせる。
将来はイギリスにある島津の研究開発拠点で、世界中の研究者とともに働きたいと語る姿は、ヨーロッパのリーグで活躍したいと語る若きサッカー選手のようでもある。
「これから先、REACHを修了した人間がどう会社と社会に貢献できるか、よくも悪くも注目されるでしょう。自分の評価も、REACH出身の他の研究者の評価も下げることのないよう、覚悟をもって研究を続けていきます」
自分を取り戻す
入社9年目の河村和広にとって、REACHは渡りに舟だったという。
「博士号を取りたいと考え始めたところだったんです。自分の時間をやりくりして論文を書くと決意した時、それならREACHで研究に専念してはと会社に背中を押してもらったんです」
食品の香気成分を分析する技術を活かした製品やアプリケーションの開発に携わってきた河村。大阪大学との共同研究を通じて、福﨑英一郎教授と出会う。研究を進めるなかで博士号を取りたいという思いが芽生え、教授と研究テーマについての議論を重ねていた。河村にとっての幸運は、福﨑研究室が大阪大学・島津分析イノベーション協働研究所で中心的な役割を担っていたことだった。福﨑教授の指導で博士号を目指すのであれば、研究に専念できるREACHに参加してはどうかと勧められたのだ。新天地でのテーマはメタボロミクスとなった。
一も二もなく飛び乗った河村は、10年ぶりの“研究生活”を心から満喫している。
「時間を気にせず研究に集中できる。会社では、いろいろな業務もこなさないといけませんから、なかなかそうはいきません。それに、共同研究先やクライアントにあたる立場の方と同じ目線で議論できることも嬉しいですね。また、研究者として自社製品を使うことで得られる気付きもあります」
博士号の取得を目指した理由の一つが、顧客の専門分野についても、対等に技術の話ができるようになりたかったことだという。客先に出向くと博士号を持った人たちに囲まれることも多い。そのなかで自分も博士号を持っているというのは大きな自信になる。REACHでの教授や学生たちとのディスカッションは、その予行演習ともいえる。
もう一つは、自身の視点を養うためだ。
「革新的、有益なものを生み出す力が足りていないと感じていたんです」
河村は中堅の年齢に差し掛かり、会社ではそろそろ業務を指揮する立場になりつつある。そのなかで、装置やアプリケーションの開発に取り組む姿勢が、それまでの業務の延長になってしまっていることに、釈然としない気持ちを感じていたのだ。
「自分でテーマを見つけ、インパクトのある問いを立てられるようになりたい。博士研究は、その訓練だと感じています」
将来はやはり海外に飛躍したいという希望を持つ。
「海外のマーケットのニーズにあった開発をしていきたいんです。自分自身が現地に行って、国内でやってきたように、お客さまと密にやりとりしながら、一緒に製品や分析手法をつくっていく。それができたら最高ですね」
博士号を取得して見えたもの
「島津の装置を世界一にしたいんです。お客さまが抱えている課題や悩みを解決する手法を一つ、また一つと開発していけば、きっと世界一になれると信じています」
と言うのは入社6年目の林田桃香。REACHの1期生で、2024年3月に修了し、博士号とともに島津製作所の本社に戻った。
REACHへの誘いは晴天の霹靂だったという。修士卒で島津製作所に入社。アプリケーション開発に携わるなかで、博士号を取りたいとの思いが生まれた。学生時代の研究室に戻ろうかと迷っていたとき、REACHプロジェクトが立ち上がる。発案者であり、島津入社後に留学・博士号取得をした経験もある飯田順子(上席理事)から白羽の矢が立った。
「立ち上がったばかりのプロジェクトには、とにかく“謎のエネルギー”を持った社員がいいということで、私に声が掛かったんです」
と、笑みをこぼす。
研究テーマは核酸医薬の品質管理における分析手法の開発に決まった。核酸医薬は遺伝性疾患やがんに対する革新的医薬として期待されており、自身の学生時代の研究領域とも近く馴染みがあった。
「核酸医薬分析のノウハウを学べてさらにブラッシュアップに携われる。これまでの私に欠けていた専門性を手に入れることができるし、会社の進む方向とも一致している。いいチャンスだと思いました」
REACHでの日々は、刺激的だったと林田は振り返る。
「仕事で研究がうまくいかなかったとしてもクビになることはありませんが、REACHでは自分のテーマは自分でなんとかしないと卒業できない。それが、ちょうどいいプレッシャーになって、ちょっとハードルの高いことにも挑戦してみようという気持ちになれたんです」
修了後、研究成果をまとめて国際的な学会でポスター発表し、出会った海外の製薬会社の担当者らとディスカッションする機会も得られた。
「学会で、自分の名札に『Ph.D.(博士号)』とあるのを見た時は感慨深かったですね。自分を核酸医薬の専門家と言えるようになったこと、そしてこれは自分の研究だと誇りを持って仕事ができるようになったのは何よりの成果です。REACHは、博士号の取得に取り組む環境がすごく整っている。興味がある人はぜひチャレンジしてほしいです」
島津製作所の新たなプロジェクトの一期生は、博士号とともに、研究者としてのプライドを持ち帰ったようだ。
大阪大学・島津分析イノベーション協働研究所
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※所属・役職は取材当時のものです
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