イグ・ノーベル賞の栄養学賞に2023年、明治大学の宮下芳明教授らが輝いた。
長年にわたる研鑽により、宮下教授の研究成果は実用化されており、社会に大きなムーブメントを巻き起こそうとしている。
研究を通して多くの人々を幸せにしたいと語る宮下教授の情熱に迫る。
人間の味覚を電気で増幅させる
人々を笑わせると同時に深く考えさせる研究に贈られるイグ・ノーベル賞。1991年に創設され、過去の受賞者の中には、のちのノーベル物理学賞の受賞者もいる。宮下教授は、2011年に発表した「電気を利用した味覚拡張」の研究で、2023年にこのユニークな賞を受賞した。
論文ではストローや箸、フォークに微弱な電流を流すことで、食べ物の塩味や旨味が増幅される現象について報告されている。いわゆる電気味覚といわれる現象を用いた研究だという。
そもそも人間は、舌などにある味蕾と呼ばれる花のつぼみのような形状の細胞にあるセンサーで、食品中の味物質を感じ取り、味覚を感じている。
その味覚の感じ方が、電気の力で増幅されることは、18世紀の時点で既によく知られていたという。宮下教授らはこの電気味覚をより手軽に感じられるように、ストロー等の身近な食器で味の変化を再現した。食体験の可能性を広げようという狙いがある。
ジョークやパロディのように捉えられがちなイグ・ノーベル賞だが、授賞式に参加した際、宮下教授はその実態は異なると感じたという。
「お互いの研究を理解し、領域を横断して科学を語りあう受賞者がそろっていました。科学をわかりやすく、広く語れる人材が、現在のイグ・ノーベル賞の対象になっているのかもしれません」
かくいう宮下教授の研究内容も、実に多岐にわたっている。そもそも味覚は研究室全体の1割程度の成果に過ぎない。学科名である先端メディアサイエンスという切り口のもと、コンピュータを使って社会の新しい可能性を探り続けるべく、生成AIやCG、VR、ドローン、ロボットなど、多彩なテーマで研究を展開している。研究を通じて学生を成長させたい。そんな思いのもと、宮下教授は学生の興味のおもむくまま、研究のすそ野を広げてきたという。
しかも宮下教授の研究は「実学」としての側面が非常に強い。電気味覚に関しても同様で、私たちの暮らしを実際に変化させる領域にたどり着いているのだ。
電気味覚の社会実装が次々と実現
2019年、キリンとの共同研究を開始し、宮下教授は減塩食品の塩味を約1.5倍に増強させる「エレキソルトスプーン」を開発。24年5月に発売にこぎつけた。
塩味のもととなるナトリウムイオンの動きを電気の力でコントロールすることで、減塩食であってもしっかりした味付けのように楽しめるのが特色で、発売後には想定を上回る購入申し込みがあった。
「研究をしている身としては、どんなテクノロジーも社会に出るまでは非常に長い時間がかかると痛感させられています。だからこそ、社会が変わる実例を間近で見られたのは本当に幸せだと思います」
企業との連携は宮下教授の創造性に火をつけたのかもしれない。事実、2020年以降、味覚にまつわる印象的な研究を続々と世に送り出している。その代表例が「TTTV」シリーズだ。塩味、甘味などの基本五味を感じさせる液体を混合して噴霧することで、飲食物の味を変えるという技術で、最新の「TTTV3」では味覚を自由に操作することに成功。手頃な値段のワインを高級ワインに変え、カカオの産地の違いを再現する。そんなSFのような技術が実現している。
「ショコラティエやスイーツ評論家、ワインエキスパートも、本物なのか、TTTV3で再現した味なのか、判別ができないくらいのレベルに到達しました」と笑みをこぼす。
「TTTV3」で産地や品種の違いまで再現できたのを受け、食品の時間を操る味覚AR装置「Taste-Time Traveller」も開発した。装置に入れた食品に関して、任意の時間が経過した後の“未来”の味、もしくは時間をさかのぼった新鮮な状態の“過去”の味を再現するという文字通りの味のタイムマシンである。
「熟成したカレーを作りたてのカレーに戻すこともできるし、作りたてを3日後の味に変えることもできます。Taste-Time Travellerが実用化されれば、賞味期限が実質的に存在しなくなり、安全上のリミットである消費期限まで食品を食べることができるようになるでしょう。そうなればフードロスの削減にも貢献できるはずです」
23年末には宮下教授らが研究してきた味覚を共有する技術と、NTTドコモが開発した五感などの情報を外部に伝達する「人間拡張基盤」との連携がスタート。将来的に音声や映像のように、味覚についてもネットワークで送受信できる社会の実現に向けて動き出している。今後、映像を視聴している人に向けて俳優が食べているモノの味を伝える、料亭の味を自宅で気軽にダウンロードする、といったことができるようになるかもしれない。
現実のリミッターを取り外したい
直近では時を操る調味食器「Chronospoon」を発表した。スプーンに乗せる食べ物の味の時間変化を操ることができる食器であり、「Taste-Time Traveller」をさらに小型化した技術でもある。
そのフォルムを見ていると、プロトタイプながらも非常に洗練されたデザインで、このまま発売しても市場に受け入れられそうなのがわかる。実際、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のデロリアンをイメージしてデザインしたそうだ。
「以前はケーブルや基板がむき出しのままでも気にすることはなく、早くデータを取って論文化したいとの思いが先走っていました。研究者にとっては当たり前の考えかもしれませんが、コロナ禍の時に改めて自分を振り返る時間ができたのをきっかけに、デザインや美しさを疎かにしていると一般の人が入り込みにくくなり、実装化が遅れてしまうと気付きました。そこからは見た目にも徹底的にこだわるようになってきました」
研究室では3Dプリンタの研究も行っているだけに、フォルムにこだわる際もスムーズに入り込めたという。
そんな宮下研究室では“表現の民主化”という印象的なキーワードを掲げる。文章を書く、映像を撮る、音楽を作る。こうした専門性が問われる作業は従来、プロの力を借りるしかなかったが、テクノロジーを使えば熟練の技をあまねくすべての人が再現できるようになるかもしれない。昨今話題の生成AIはまさに表現の民主化の最先端にいる技術であり、今、もっとも宮下教授が注力している研究対象でもある。
多様なテーマを追いかける宮下教授だが、その全てに共通する視点がある。それはテクノロジーで“人を幸せにする”ことだ。
「現実社会で我々は、知らず知らずのうちに我慢しており、幸せをつかもうとしても、リミッターがかけられていて前に進めないケースが少なくありません。病気で食事制限がある人も、本当はしっかりとした塩味を思い切り味わいたいはず。そうした現実世界の制約を取り払うテクノロジーを通して、多くの人の幸せにつなげていきたいですね」
人の幸せに寄与するテクノロジーという観点は、これからの時代の新潮流となるはずだ。
※所属・役職は取材当時のものです。
- 明治大学 総合数理学部 先端メディアサイエンス学科 教授宮下 芳明(みやした ほうめい)
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1976年イタリア・フィレンツェ生まれ。千葉大学で画像工学を学んだ後、富山大学大学院で音楽教育を専攻し、さらに北陸先端科学技術大学院大学にて博士号(知識科学)を取得するというマルチな経歴を有する。専門分野は人間の表現能力の拡張。音楽・CG・ゲームなどのデジタルコンテンツ、あるいは3Dプリンタなどを用いたデジタルファブリケーションを通して、多角的に研究を重ねている。その中のテーマの一つが電気味覚だという。
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