近い将来、認知症は治る病気になるかもしれない。そう期待させるニュースが、このところ相次いでいる。
その鍵となるのが、「眼」となる装置と画像診断の技術。
認知症画像診断の発展を支えてきた放射線科医の思いに迫る。
研究室の絵画
放射線科には、絵画や写真を趣味にする医師が多いという。体内を映した画像を読み解き、画像のほんのわずかな違いから病気の在り処を探る仕事は、線の一本一本、陰影や色を操る芸術と通ずるところがあるのかもしれない。
近畿大学医学部放射線医学教室放射線診断学部門の石井一成主任教授も、幼少期から絵の世界に魅了されてきた。小学生時代には全国規模の展覧会で入選した経験もあるという。
「子どもの頃、特に惹かれたのが、レオナルド・ダ・ヴィンチ。科学者であり、芸術家でもあったダ・ヴィンチへの憧れは、今、放射線科医としての道を歩んでいる原点かもしれません」
研究室には、教授自らの手による油絵が飾られている。かつて留学していたミュンヘンから休日に訪れたロマンチック街道のディンケルスビュールの街並みを描いたもの。藍色と茜色が淡く溶け合う夕暮れの空は、見たままを忠実に理解しようとする教授の姿勢をうかがわせるようでもあり、忙しい研究の合間に見つけたひとときのやすらぎを彷彿させるようでもある。
認知症の兆候をいち早く捉える
石井教授が専門とするPET(Posi-tron Emission Tomography:陽電子放出断層撮影法)は、形状ではなく、機能を見ることのできる画像診断装置。対象とする領域の細胞が、糖を摂取しているとか、酸素を消費しているといった働きを可視化して、病変を識別する。
「放射線科医として駆け出しだった頃は、放射線治療にも携わっていました。放射線治療は、今でこそがんなどの治療に高い効果を発揮していますが、当時は手術や抗がん剤では治療が難しいとされた患者さんが最後に訪れる場所でした。助けられない人があまりにも多かったことから、早期治療に貢献したいと、画像診断技術の向上に力を注いできました」
と、PETにかけた思いを語る。
がんの診断とともに期待されたのが認知症の診断への活用だ。教授は日本でPETがそれほど浸透していなかった1990年代、兵庫県で初となるPET装置を備えた認知症を専門とする兵庫県立高齢者脳機能研究センターの設立にもかかわった。2009年に近畿大学に着任してからは、アルツハイマー病の兆候を捉えることに特化したアミロイドPETの活用を大きなテーマとしてきた。
近年、アルツハイマー病がどのように進行するかについて、かなりのことがわかってきた。2023年には、アルツハイマー型認知症の進行を遅らせられる治療薬「レカネマブ」も承認された。ここにアミロイドPETによる画像診断の精度向上が果たしてきた役割は大きい。
実効性が高まりつつある認知症包囲網
アルツハイマー病は、脳に「アミロイドβ」というタンパク質が蓄積するところから始まる。遅れてタウという別のタンパク質が蓄積するようになると、神経細胞死を引き起こし、代謝や血流が下がり、脳の委縮が進む。
「正常な高齢者でも約20%はアミロイドβが溜まっています。アミロイドβが溜まり始めた段階からPETによる定期的な画像診断をすることで、将来的にアルツハイマー型認知症になる可能性をいち早く捉えることができます」
アミロイドPETは、従来、研究目的が主で、確実なアルツハイマー型認知症の診断が必要な患者のみに保険外診療で行われてきた。だが、レカネマブの承認を受けて、治療面で大きな注目を浴びている。
「当院にも地域の開業医からレカネマブ治療依頼が続々とあり、アミロイドPETを実施しています」
ほかにも認知症領域は新たな治療薬、検査薬が登場しており、いつかは認知症=治せる病気という世の中が実現するかもしれない。
2025年には、65歳以上の5.8人に1人が認知症になるとされている。その7割近くがアルツハイマー病であり、患者やその家族、保険行政上もアルツハイマー病の克服を望む声は大きい。
アミロイドβの蓄積は、運動や食事などによって、差が出ることが明らかになっている。つまり健康診断などの機会を通じて超早期にアミロイドβ蓄積の兆候を捉え、生活改善指導と投薬を施せば、劇的に患者を減らせる可能性がある。だが、そこには大きな課題がある。
「絵で言うところの絵の具にあたるものが、PETで言えば放射性薬剤。健康診断に対応できるようにするには、放射性薬剤の製法や運搬に革新的な進歩が必要です」
放射性薬剤の製造にはサイクロトロンという大規模な設備が必要だ。放射能の半減期、つまり薬剤の効果が持続する時間が非常に短く、これまではサイクロトンを自前で備える施設でしかPET検査はできなかった。近年、従来よりも半減期の長い薬剤を製薬メーカーが自社工場で製造し、いち早くデリバリーする物流網も確立されてはきたが、それでも半減期は2時間。どこでもできる検査を目指すには、小さくないネックだ。
とはいえ、日々アルツハイマー病の画像診断は着実に前進している。そう遠くない将来、タウタンパク質の治療薬やタウPETなどの技術革新が認知症をとりまく構図をがらりと変える可能性は十分にある。
PET運用の効率化がもう一つの鍵
そこで、近畿大学は産学連携で島津が開発した小型のPET装置を臨床使用可能に発展させた。この装置は全身用PETに比べてコストが抑えやすく、追加導入すれば認知症の検査枠を確保できる。また、頭部と乳房に近接した撮像が可能で、全身用PETに比べて精細な画像が得られるのも特徴だ。
「PETを使って正確に疾患を判別する技術を研鑽し、認知症はもとより脳にかかわる疾患の早期発見につなげていく。その思いを胸に、これからも頑張っていきたいですね」
研究室の壁には石井教授の絵とは別に、バロック期の巨匠・フェルメールの絵も飾られている。光の魔術師の異名の通り、フェルメールは現実空間そのままの色合いの再現にこだわり抜いた写実主義者だ。リアルな画像診断を追い求める石井教授の信念を、そこに見ることができる。
※所属・役職は取材当時のものです。
- 近畿大学医学部 放射線医学教室
放射線診断学部門 主任教授石井 一成(いしい かずなり) -
1986年、神戸大学医学部卒業。兵庫県立高齢者脳機能研究センター画像研究科PET研究室長などを経て、2009年から近畿大学医学部放射線医学教室放射線診断学部門へ。専門は放射線医学・核医学、特に認知症の画像診断に精通している。
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