「おいしい」という感覚は、どこから来るのだろう。
料理の味や香りはもちろん、食卓を共にしている人たちとの会話もその感覚を左右している。
この問いに答えを出そうという挑戦が始まっている。
キッコーマン株式会社で研究開発を牽引する、松山旭氏に伺った。
言葉で表せない感覚を数値で表現したい
「僕が一番記憶に残っているのは、運動会で校庭にゴザを敷いて家族と食べた唐揚げかな。あの味は、忘れられませんね」
と笑みをこぼすのは、キッコーマン株式会社取締役常務執行役員で研究開発本部長の松山旭氏。同社の研究開発を牽引する。
キッコーマンは、言わずと知れたしょうゆのトップブランドだ。江戸時代から日本の食文化の発展を支え、近年は「おいしい記憶をつくりたい。」というメッセージをコーポレートスローガンに据えて、多様な研究・商品開発を進めている。
「おいしい記憶」という言葉は、味そのもの以外にもさまざまな情景を思い起こさせる。その場の風景、空気の温度や湿度、香りや見た目、加えてその場を共にしている人たちの表情や会話、そしてその時の気持ちも「おいしい記憶」として残っているかもしれない。
「おいしさの記憶を言葉で表現しようとしてもやはり限度があります。私だったら10パーセントも表現できていないと思う。たとえプロのエッセイや小説だって表現しきれるものじゃない。そういうものを数値で示せたらどうだろうかと挑戦しています」
コミュニケーションがイノベーションのカギ
キッコーマンの研究開発は、1904年に遡る。千葉県野田市に開所した野田醤油醸造組合醸造試験所は、その後キッコーマンの前身である野田醤油株式会社に移管され、現在では、世界へと研究開発の場が広がっている。
2019年、かつては醤油蔵が並んでいた場所に、新たに、中央研究所を竣工した。
「以前の研究施設は50年以上前の建物で、大学の研究室のように小部屋がずらりと並ぶようなつくりでした。個室スタイルで社員が分散し、分析装置の取り回しなどにも苦労しました。そういうこともあって、設計には新しい考えをふんだんに盛り込みました」
どことなく醤油蔵を思わせる落ち着いた外観の建物の内部は、間仕切りがすっかり取り払われ、カフェからオフィスを奥まで見通せる。まるで図書館のようだ。
「デスクから立ち上がると、だいたいどのへんに誰がいるかが見える。コミュニケーションをよくしていこうというのが基本的な思想です。研究開発、商品開発が同じフロアに入り、グループ会社の技術者も設備を共有できるようにと設計しました」
コンセプトは「夢への挑戦」だ。研究の本命は発酵・醸造だが、研究所の役割としては、次の事業の種を生み出すことも期待されている。さらに、食の安全・安心を確保する技術の確立、そして商品の加工プロセスの開発も進めているという。
それにはグループ会社の社員なども加わって、オープンな環境で議論ができることが不可欠だろう。コミュニケーションの活性化を加速させようとする意図が見えてくる。
また、発酵・醸造については譲れないという軸は持ちつつも、外部との共同研究を積極的に進めている。たとえばおいしさの追求のための計測技術や、網羅解析の技術などが必要な場合、それを得意とする組織と組むことで、より早く、より良いものを消費者に寄り添った商品として届けるために、オープン&クローズ戦略の考えで開発を進めている。
2つとして同じ食卓はない
実験室では、社員がコミュニケーションを交わしながら作業をしている。中央研究所の竣工と同時に、その研究を支えるために、島津製作所の分析装置も多数導入された。
「食品を扱う我々が、決して手を抜けないのは食の安全を守ることです。特に、安全な原材料の使用は最重要課題ですから、すべての原材料を対象に、安全性のチェック体制を強化しています。LC-MS(液体クロマトグラフ質量分析計)は使う機会が増えてますね」
味を感じるメカニズムに関する研究も進んでいる。
「たとえば研究所の分析装置にかければ、しょうゆの香りから300以上の成分が検出できます。でも、それがいったいどう組み合わされば、人がおいしいと感じているかは、まだよくわかっていません。ただ、ある物質とある物質の組み合わせによって、特定の感覚が導かれているということはわかり始めており、他社のものとうちのものとではパターンがこう違うからこういう香りを強く感じるということもわかるようになってきた。こうした情報を結びつけた結果、調理したときに“こういうタイプの香りが強く出るほうが好まれる”といったことがわかるようになってきているんです」
醸造という自然の営みを数値で見極め、それらと客観的な情報を結びつけて、多角的に洞察し、知見を得る。「おいしい」という感覚が科学的に解明されたとき、私たちの食卓はどう変わっていくだろうか。
「365日、朝昼晩食べれば、一年で1000回の食の記憶があります。一生では8万回以上になるかもしれません。それが人口の分だけあって、2つとして同じ環境はないんですよ。そう考えると、すべての人が人生の中で自分にとって特別な食を楽しむ権利を持っている。それも食の魅力といえるでしょう。
もちろんさまざまな事情で楽しむということを選べない人もいます。でも、選べるかぎり、我々は常に寄り添って応えていく気持ちを大切にしています。少なくとも研究・商品開発をしている社員は、その意識を持ち続けていなければいけません」
世界の食卓にキッコーマンを
世界では、しょうゆのことを「キッコーマン」と呼ぶ国は多い。それくらい早くから世界にしょうゆを浸透させてきた。松山氏もそこに関わった重要なキーマンだ。
しょうゆは日本の味の代表ともいわれるが、松山氏の感覚は少し違うという。
「いろいろな食材が合わさった料理の完成形としておいしかったという記憶が残るのであって、しょうゆだけがおいしかったと言われることはあまりありません。しょうゆは『おいしいのコア部品』なんです。そういう視点で食を捉えていくことを大事にしています」
同じように海外進出し、現地で生産している食品メーカーからは、環境も気候も違う場所、しかも違う文化を持った人が、日本と同じ味のしょうゆを現地で再現していることに驚かれるという。
「私たちは、それだけベースとなる野田のしょうゆの味を大切にしているのです。世界中のどこでも、野田と同じ味をつくりたい。そのうえで、それぞれの国の、その地域の食文化に浸透し、文化の一つ、一人ひとりの食事風景の一コマにしていくこと。『おいしいのコア部品』としてのしょうゆをベースにこれからも世界中の人々に寄り添っていきたいですね」
※所属・役職は取材当時のものです。
- キッコーマン株式会社
取締役常務執行役員
研究開発本部長松山 旭(まつやま あさひ) -
1980年東京大学農学部農芸化学科卒業、同年キッコーマン株式会社入社。カナダ・ブリティッシュコロンビア大学留学後、KIKKOMAN MARKETING AND PLANNING社(米国)出向、研究本部第2研究部長、キッコーマンバイオケミファ株式会社代表取締役社長(兼務・現職)などを経て、2018年より現職。新事業、新製品の創出に向けた夢のある研究開発に、消費者本位の視点を持って挑戦している。
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