「最優先事項だ」
世界が不安に覆い尽くされた2020年2月、島津は動き出した。
PCR検査を簡便にする新型コロナウイルス検出試薬。
全社が総力を挙げて挑んだ2か月間の軌跡を追う。
緊急事態宣言発出
「なあ、これ、大変なことになるんちゃう?」
気になるニュースが続いていた。2019年の暮れ、中国の武漢で原因不明の肺炎患者が報告された。年が明け、1月14日にはWHO(世界保健機関)が新型コロナウイルスを確認。翌15日には日本国内でも感染者が確認された。最終週にはヨーロッパ各国でも感染が広がり、1月30日、WHOは「国際的な緊急事態」を宣言するに至った。パンデミックである。
「どうもすぐには収まりそうになくて、検査の拡充も遅れていると。これはまた私たち遺伝子解析グループの出番がくるかもしれないなと思って」

中山博之 主任
2020年2月、東京で産学官プロジェクト推進室に籍を置く中山博之は、開発担当者の一人として研究開発に邁進していた京都本社の古巣、バイオ・臨床ビジネスユニット遺伝子解析グループのグループ長、四方正光と久しぶりに連絡をとった。
島津製作所の分析計測事業部にある遺伝子解析グループでは、扱っている商品のひとつに遺伝子増幅用試薬「Ampdirect™」がある。
通常PCR検査では、細菌やウイルスのDNAやRNAを装置で検知できる量まで増幅させるが、採取した検体には細胞質や血液由来の成分などが入り混じっており、そこに含まれるたんぱく質や多糖類が増幅反応を阻害することがあるため、それらを取り除き、DNAやRNAのみにする精製操作が必須となる。
しかし、この精製操作は煩雑であり、熟練が必要なことや、手間や時間がかかってしまうことがPCR検査を難しくする要因となっていた。
これを解決したのが、世界で初めて検体からDNAやRNAの精製を必要としないPCR試薬、Ampdirectだった。
Ampdirectは、生体試料に含まれるたんぱく質や多糖類などの反応阻害物質の作用を抑制できる工夫が施されており、DNAやRNAの精製工程を飛ばして、血液などの体液を直接PCRの反応液に添加して遺伝子増幅することを可能にした。
1997年、課長だった西村直行(当時)らが第1号を開発。2006年にノロウイルス検出に最適化した検便用のノロウイルス検出試薬キットを発売した。「糞便からRNAを精製する手間がいらないので簡単・迅速に検査が行える」と、検査機関から大いに歓迎された。

二宮健二 主任
「プレス発表したら1日中電話が鳴りやまなかったのを覚えています。当時メインで対応されていた中山さんは、本当に大変そうでした。それだけインパクトが大きかった」
と当時チームの一員で、工場と協力して試薬の製造立ち上げに携わっていた遺伝子解析グループの二宮健二は振り返る。
中山とAmpdirectの関わりは20年を超える。第1号が開発されておよそ3年後にチームに加わり、ノロウイルス検出試薬キットは自身の手で開発。発売後は技術窓口として説明や電話対応も行ってきた。遠心分離機をかばんに詰め込んで、デモをして回ることもあったという。
2013年に中山はチームを離れ東京に転勤したが、その後も顧客からの問い合わせを受けたり、改良のアイデアをチームと話したりといった付き合いは続いており、メンバーとも顔なじみだった。
その気安さもあり、世間話まじりで四方に心配の連絡をしたのが2020年2月の終わり。その直後、事態は急変する。
下ったミッション
その頃、世界の感染者数は指数関数的に増えていた。死者も増え、医療従事者の悲鳴も聞こえてきた。
一方、世界に比べると極端に感染者数が少ない日本の状況に、「検査がきちんとできていないだけなんじゃないか」という世の中の疑心暗鬼の声が不安を呼び、かつてない重苦しい雰囲気が垂れ込めた。保健所などのPCR検査に関連する現場の疲弊も伝えられたが、有効な解決策を示すことは、だれにもできなかった。
2月15日、遺伝子解析グループに対して正式に「新型コロナウイルス検出試薬」開発のミッションが下った。

高岡直子 主任
「初めて患者さんが発生したというニュースを聞いた時点では、こんなに感染が広がるとは思っていませんでした。すぐに終息して、製品化するほどの事態にはならないだろうと思っていたものの、Ampdirectが貢献できる可能性は感じていました。2月に急速に感染が広がるなかで、あのミッションが下りた。ついに来たなという感じでした」と、開発の高岡直子は述懐する。
自信もあった。高岡は中山のあとを継いで、四方や他の開発メンバーと一緒にノロウイルス検出試薬キットの改良を進めてきたリーダーでもあった。検出方法や、より短時間で検出が終わる試薬の配合の改良を続けており、成果も出ていた。
「ノロもコロナもRNAウイルス。ノロのキットがベースにあるので技術的なハードルは低い。検査時間を半分以下にするのは十分可能だと踏んでいました」
当時1検体の検査にかかっていた時間は2時間以上、それが1時間になれば、同じ時間で倍の検査ができることになる。働き手の負荷も大きく軽減されるはずだ。
しかし、そこからの道のりは、「めちゃめちゃハードでタイト」(高岡)だった。陣頭指揮をとった四方の肩には、ずしりと重荷が載せられ、日を追うごとに減るどころかますます重くなっていった。

四方正光 副ビジネスユニット長・グループ長
「試作品をつくって検証するにしても、原料を確保しなくてはなりません。その試作がダメとなれば、別の原料を確保しないといけない。製造が始まれば部材もです。ところが新型コロナによる市場の混乱で、あてにしていた取引相手から供給は難しいと。それでまた違う相手にお願いする。そうするとモノが変わるのでまた一から評価のし直しが必要で。そんなことの繰り返しでした」
課題はまだまだあった。未知の感染症ゆえに、感染方法や体内で増殖する仕組みが解明されていなかったため、誰もが新型コロナウイルスには最大限の警戒を敷いており、高い感度でのウイルス検出が求められた。
また、ノロウイルスのように検体が便であれば、どうすれば増殖阻害反応を抑制できるかを熟知していた四方らだが、鼻粘液や唾液は“未知”の検体。きちんとデータが出るのか、不安が拭い去れないまま検証を繰り返していった。
全社一丸で現場へ送り出す

写真前列左からライフサイエンス事業統括部 バイオ・臨床ビジネスユニット 遺伝子解析グループ 二宮健二 主任、高岡直子 主任。 後列、四方正光 副ビジネスユニット長・グループ長
開発リーダーを務めた高岡ら、開発チーム全員の奮闘で、3月下旬には試作品が完成。北海道の札幌医科大学の協力のもと、新型コロナウイルス陽性患者由来の検体で評価を行い、国立感染症研究所が提示していた検出性能をクリアし、検査に使用できることが厚生労働省に認められた。
いよいよ生産を本格化させようと原料調達部門や工場の製造推進部との調整にあたった二宮は、ふだんとの雰囲気の違いを強く感じたという。
「『最優先でやる。なんでも言ってくれ』と。もちろんトップダウンの最優先事項ではあったのですが、製造量や納期の点から、原料の調達も工場の稼働もノロのときとは桁違いに大変なのに、だれもがそれに応えようと必死になってくださって。世の中の役に立ちたいという島津の仲間の底力を見せてもらった気分でした」
2020年4月20日、「Ampdirect新型コロナウイルス検出試薬」が発売の日を迎えた。既存のPCR検査が前後の工程を含めて2時間以上かかっていたところを、同キットを使えば70分で終わる。メディアで取り上げられると、予想通り問い合わせが殺到した。
発売直前に一夜城で立ち上がったサポートチームには、中山の姿もあった。
「急に検査対応することになったお客様も多くて、PCRってなんですか、という質問も。それだけ有事なんだ、と丁寧にお答えしました」(中山)
「使い方がわからないというお客様にはリモートでお教えしたことも。いままでしたことのなかったサポートですが、むしろ効率がよくなりました」(高岡)
発売当初、喀痰(かくたん)と鼻咽頭から採取した粘液だけが検査対象であったが、日本医師会からの後押しもあり、検査担当者の感染リスクを下げるために唾液での検査も認められるようになった。これがさらなる検査の普及につながり、いまでは医療機関はもちろんのこと、陰性証明を行う検査機関でも広く使われている。
さいごに、いつかやってくるであろう次のパンデミックについて聞いてみた。
「いまの状況を教訓として、体制を整え、しっかりと次に残していきたい。会社の利益も大事ですが、世の中に役立ってこそ。わたしたちの社是を体現しつづけることが、使命だと思っています」(中山)
検査を受けるべき人が、すぐ受けられるようにする。全社が力を結集して取り組んだ今回の経験は、この先も必ず活かされるはずだ。

※所属・役職は取材当時のものです
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