人類の歴史を変える次世代の秒の再定義の有力候補
光格子時計を実現した物理学者の信念

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重力の大きいところでは、時間の流れがゆっくりになる。
アインシュタインが一般相対性理論で予言した時空間のゆがみだ。
これをスカイツリーという身近な世界で実測してみせたのは、実現不可能と思われたアイデアをカタチにした物理学者の信念だった。
東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻の香取秀俊教授に開発秘話を伺った。

時空間のゆがみを測る

2020年4月、東京スカイツリーで時空間のゆがみを検証する実験の成功が報告された。チームの中心は、東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻の香取秀俊教授。次世代の時間標準の最有力候補とされる「光格子時計」の発明者だ。

 

チームは、これまで実験室に据え置かれていた光学装置や制御装置を小型化し、デスクトップサイズの光格子時計を開発。これをスカイツリーの展望台(450メートル)と地上階の2か所に置き、それぞれが示す時間の進み方の違いを測った。

 

この時計は300億年で1秒の誤差に相当する10のマイナス18乗(18桁)というとてつもない精度をもつ。島津製作所もこのチームの一員として、計測のカギとなるレーザー光の制御システム構築を担当した。

 

結果は、展望台では地上よりも1日あたり4.26ナノ秒、時間の進みが早かった。300万年後には約4秒の時間差が生まれる計算だ。

「量子力学ってエレクトロニクスのデバイスなどに応用されて、どんどん日常生活に入ってきていますね。一方、20世紀のもうひとつの大発見、相対性理論が日常生活に応用されることはほとんどありませんでした。でも、いまや相対性理論を観測できる道具ができた。これが社会や科学にどういう変革をもたらすか、本当に楽しみです」と香取教授は目を輝かす。

部屋を占拠するほど大型であったこれまでの装置でも、同程度の精度は得られていた。だが、運べるサイズまで小さくできたことで、光格子時計の社会への実装が現実味を帯びてきた。それは、ただ正確な時間を測ることにとどまらない、極めて大きな可能性を秘めている。

目盛りを細かくする挑戦

「時間は、あらゆる物理量のなかでもっとも精密に測れる。そこにチャレンジするチャンスがあるなら、科学者ならだれでも心が動く」香取教授は、光格子時計の研究を始めた動機をそう話す。

実は現在、長さの単位・メートルは、光の速さによって定義されている。1メートルは、光が2億9979万2458分の1秒に進む距離。真空中の光の速さを2億9979万2458メートル/秒と定めることによって定義されている。

かつては国際メートル原器と呼ばれる白金イリジウム合金の棒が、1メートルの長さとされてきたが、経年変化を免れることができず、次第に狂いが生じてきた。そこで、1983年に常に一定な光の速度と時間で定義することにしたのだ。技術が高まってきたことで、原器の正確さを上回る測定が可能になったからこそできたことだ。

現在、時間の基準となっているのは、セシウム原子時計だ。原子にはそれぞれ固有の振動(周波数)があり、セシウムの周波数は約92億Hz。その振動を計測し、92億回に達したら1秒進める、というのが原子時計の仕組みだ。計測技術の進歩によって、天体に頼るより原子の振動を数えたほうが正確だと認められた1967年以来、「クロノス(時の神)」の座を守り続けている。誤差は6000万年に1秒、およそ16桁の精度だ。

その恩恵を受けているものの一つがGPSだ。GPS衛星には原子時計が積み込まれている。衛星から発せられる信号には、原子時計が刻んだ時刻の情報が入っており、手元のGPS受信機に着いた時刻との差に電波の速さをかければ、衛星と受信機の距離を割り出せる。時間が正確だからこそ、場所を正確に知ることができるのだ。

セシウム原子時計で18桁の精度を狙うには、たとえ上手くいったとしてもその結果を得るには300年間もの間、計測を繰り返す必要がある。2000年ごろ、原子時計にセシウムよりずっと周波数が高い水銀イオンを1個だけ捉えて計測する単一イオン時計の研究が進んだ。これこそ次のクロノスと期待されたが、それでも18桁の精度を出すには100万回の繰り返し計測が必要だ。1回の計測がたとえ1秒でも100万回計測すれば10日間かかるのだ。

香取  秀俊

「測定時間の高速化が、不可能と思われた高精度な測定を可能にする。世の中にインパクトをもたらす高精度を狙うには、桁違いの高速化が必要だ」

そう考えた教授がついに行き着いたのが、100万個の原子の振動を一度に測ることができる光格子時計だ。

1個ずつ原子を収める卵ケース

100万個の原子の振動を一度に測るには、原子を1個ずつ整然と並べるミクロな容れ物が必要だ。さらに原子にその容れ物からの影響があってはならないという条件が付く。

まず教授は、特定の波長のレーザー光を使った“光格子”に原子を閉じ込めると、原子が吸収する光の振動数が影響を受けないことを発見。教授はその波長を魔法波長と名付けた。これが光格子時計実現の最大のカギとなる。

さらにそのレーザー光を使って、まるで卵ケースを思わせる光格子を作り、その中に原子を一個ずつ並べ、100万個の原子の振動を一度に測るという仕組みを世界で初めて考案した。

「学会で一目置かれる研究者に会うと、こんな方法はどうだろうかと会食の折に話しかけました。『ジョークとしては面白いよ』と言われるほど勇気づけられたものです。誰もできないと思うなら面白い、挑戦する価値がある」

そして2003年、教授は世界初となる光格子時計の開発に成功した。以後、徐々に改良を重ねて、ついには18桁の精度で計測できる装置を完成させた。次世代の秒の定義の候補にも採択されている。

18桁精度の時計が普及すると、いったいどんな変化がもたらされるのだろうか。

「2台の光格子時計を比べると、それらの高さがわずか1センチ違うだけで、時間の進み方が違うのが観測できます。時計は重力で曲がった時空間を映し出す新しいセンサーの役割を担うことになります。時々刻々と変化する地殻変動の様子を捉えたり、さらには地下資源の探索にも使えるようになるでしょう。光格子時計が社会実装されると、予想もしないもっと面白い応用が見つかるでしょう」

「セシウム原子時計を発明した物理学者には、いまの原子時計の使われ方は全く想定外のことだと思います。GPSが配備され、民生利用に開放されて、さらに利用技術が成熟すると、自動運転に使えるのではとビジネスを考える人が現れてくる。

人類の歴史は、時計の高度化の歴史です。時計の精度が桁違いの進化を遂げようとしているこの数年は、極めてエキサイティングな瞬間です。不連続な時計精度の向上でゲームのルールが一変するいまこそ、未来のサイエンスとビジネスを構想する大きなチャンスです」と笑みをこぼす。

この次に取り組んでみたいことはという問いに、教授は「19桁を実現したい」と語る。そうなれば、時空間のゆがみの測定精度は高さにして1ミリだ。その時計は、いったいどんな世界へ我々を連れていってくれるのだろうか。

※所属・役職は取材当時のものです。

香取 秀俊 香取 秀俊
東京大学大学院物理工学専攻教授、理化学研究所招聘主任研究員/チームリーダー(兼務)香取 秀俊(かとり ひでとし)

1964年、東京都出身。1988年東京大学工学部卒業、91年同大学院博士課程中途退学。独マックスプランク量子光学研究所客員研究員、東京大学工学部附属総合試験所助教授などを経て、2010年、東京大学大学院工学系研究科教授に就任。2011年より理化学研究所・香取量子計測研究室・招聘主任研究員を兼務。教授の開発した光格子時計は数年後に予定されている秒の再定義の有力候補とされている。

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