シリーズ島津遺産

医学の発展に寄与した日本初のX線技師養成学校
品性と技術に優れた技師を育てた高い志とは

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X線を当てて身体の内部を撮影する放射線検査。
その発展には、X線装置を安全かつ効果的に扱える専門技術者の養成が不可欠だった。

技術が成果を出すために

どんな優れた機械も正しく扱える者がいなければ効果を発揮しない―。産業革命以来、革新的な技術が次々と登場したが、安全策が不足していたり、正しく扱うための知識が欠けていたことから事故につながった例は枚挙にいとまがない。ボイラーにはじまり、車や飛行機、あるいはインターネットのセキュリティも同様に紆余曲折を経て現在の発展がある。

危険性を正しく把握し、操作に厳重な遵守事項を設け、安全に扱い、危機管理ができるだけの知識を身につけてきたのだ。

X線もその一つに数えられるだろう。物体を透過し、外側からでは見えないモノの内部を映し出す。1895年、レントゲン博士がX線を発見した当初から医療に大きな革新をもたらすと期待された。しかし、黎明期には十分な知識がないまま扱ったために、操作者が放射線障害を負う例も少なくなかった。

X線診断の黎明に

レントゲン博士が特許を取得せず、成果を広く世に開放したことで、X線の研究開発は急速に進んだ。日本では博士による発見からわずか11か月後にはX線写真の撮影に成功している。その実験に携わったのが島津製作所の創業者の息子である二代島津源蔵らであった。

初期のX線写真
初期のX線写真

その後、海外ではいち早く医療用の装置が開発され、普及していった。日本でも医療の歴史を変える技術を取り入れるべく、海外の装置を積極的に輸入。しかし、高価なうえに十分な電力を確保できないなど、普及するには多くの課題があった。

そんななか、1909年、島津製作所は国産初の医療用X線装置、いわゆるレントゲン装置を陸軍千葉国府台衛生病院に納入。以後、島津は、世の求めに応じて精力的に開発を進め、次々に新製品を送り出し、X線による診断はさらに広がりを見せた。

一方、普及するに伴い深刻な課題も浮かび上がってきた。X線は目に見えず、感触もないがゆえに、初期のX線装置は、高電圧部が露出し、X線の遮蔽も十分ではなかった。そのため事故が多く、また、安全性の認識は十分とは言いがたい状態であり、実際、著名な放射線医学者でも被ばくし、放射線障害を負ったという。

いまでこそX線装置の操作は、国家資格として専門の教育機関で訓練された診療放射線技師があたっているが、当時、放射線技術者は、陸海軍や大学で短期的に訓練を受けるしか学べる環境はなく、その質も人数も圧倒的に不足していた。その結果、診療に支障をきたすケースも出てきた。

技術者を育てるのはメーカーの責務

島津でX線装置の開発に情熱を燃やす二代源蔵であったが、それゆえに装置を正しく安全に扱える放射線技術者養成の必要性も痛感していた。当時は、慶應義塾大学や大阪医科大学などで医学放射線の専門講座を開設している大学はあったが、まだごく一部に限られていた。

「医療事故を起こさないためにも、技術者を育てるのは大事なことだ。メーカーの責任として、われわれ島津がその責務を果たさなければならない」

その源蔵の想いと、医学界からの強い要請もあり、1921年6月「レントゲン講習会」を開催した。

多くの医師や技師の要望に応え、X線物理学や撮影技術、そして装置の取り扱いなどについて講演と実習指導を行い、好評を博した。以後、日本医学放射線学会が引き継ぐ1939年までの18年間継続して開催。大学以外で一流の講師陣から一流の講義を受けられる「レントゲン講習会」は高い評価を受け、受講者の総数は1858名にのぼり、X線技師は順調に増えていった。また、これとは別に「歯科レントゲン講習会」も数年にわたり行った。

昭和2年頃の医療用X線撮影装置
昭和2年頃の医療用X線撮影装置

技師養成の専門教育機関を設立

もっとも、短期間の講習で学べることには限りがある。X線装置を正しく扱うためには、本来であれば数学や物理、電気などの基礎知識の習得や十分な実習が欠かせない。「レントゲン講習会」は盛況であったものの、習得すべき内容に対する期間の短さはいかんともし難かった。

このことに、二代源蔵は忸怩(じくじ)たる思いを抱き、人格も技術も優れた技術者を養成することで、医学会の発展に貢献したいと考えるようになる。それは、「科学技術で社会に貢献する」という島津の社是にも通じるものだった。

1927年、京都府知事の認可を受け、ついに日本初のX線技師養成学校「島津レントゲン技術講習所」を設立する。当初の教育期間は6か月。X線装置の原理とその撮影法、電気理論はもちろん、解剖生理学や電気事業法令にまで及んだ。また実習では、当時、その性能の高さから「レントゲンの島津」と呼ばれる所以となっていたダイアナ号とジュノー号を使うなど、最新の技術が学べる環境を整えた。さらに「立派な人物を世に送り出したい」との源蔵の思いを反映し、京都大学教授による修養講座も設けた。

この試みは高い関心を集め、第1回生の入試には、日本各地はもとより、海外からも受験生が集まり、数百名が受験、うち21名が合格し、晴れて入学した。

第一回入学式の様子
昭和2年(1927)9月、京都府知事の認可を受けて、島津レントゲン技術講習所が、京都・木屋町二条の社屋(現島津製作所創業記念資料館)を校舎に開設された。写真は第一回入学式の様子。

技術の進化とともに

以後、X線技術の進化に伴い、教育期間が延長され、教科目も拡大。1935年にレントゲン技術専修学校と改称すると、さらに専門学校を経て、1989年に学校法人京都島津医療技術学園(1991年から学校法人島津学園に)として京都医療技術短期大学、そして2007年には4年制の京都医療科学大学へと発展。CTやMRI、マンモグラフィーなどの画像診断装置や放射線治療計画システムなど高度医療を展開する病院と同等レベルの機器を随時導入・更新することで教育の充実を図っている。

いまや、診療放射線技師を養成する大学、専門学校は、全国に53施設ある。診療放射線技師の国家資格を有して、病院やクリニックに勤務している技術者は約5万名に上り、毎年新たに約2000名がそこに加わるまでになった。医療現場で放射線障害を負う例はほとんど聞かれなくなり、X線撮影の専門家である診療放射線技師は、チーム医療に欠かせない存在としてその地位を確立している。強い使命感で技師の育成にあたった二代島津源蔵が思い描いたX線医療の理想は、大きな実を結んだといえそうだ。

※所属・役職は取材当時のものです

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