Special edition “aim higher”

逃げなければ絶対に道は拓ける 車いすラグビー日本代表・池透暢さんのモットー

  • LinkedIn

障がい者スポーツの中でも高い人気を誇る車いすラグビー。
日本代表チームのキャプテンである池透暢(いけゆきのぶ)選手に、競技生活を始めるに至るまでの波乱万丈の人生や、競技にかける思いを聞いた。

一番上を目指して

2020年東京大会でのチームの目標は、もちろん金メダルです。前回のリオでは銅メダル、2018年の車いすラグビー世界選手権大会では優勝できたので、決して夢物語ではありません。しかし、世界の強豪国には、高いパフォーマンスを発揮する選手がそろっています。僕らはそんな彼らを凌駕しなければならない立場ですが、そのための答えは一つではありません。まずは、大会まで残されたわずかな期間で、12名の選手全員のパフォーマンスを最大限に上げていく必要があります。

また、パフォーマンスと同じくらいメンタリティも重要です。プレーはもちろん、まず人としてもすばらしい選手、そしてスタッフであることが最優先です。選手一人ひとりが強いプライドや仲間を信じる心を胸に抱いて、必死に戦い抜く。その姿が、結果として応援してくださる方々に感動や勇気を与え、勝利につながるのだと思っています。

しかし、そのレベルに到達するには、正直、まだ乗り越えなければならない壁がいくつもあります。だからこそ、ここからさらにすべてのレベルを上げるべく突き進んでいく。これしかないと信じています。そして自信を持って本番の会場に入り、金メダルを獲りたい。しかも、ただ金メダルを獲るのではなく、満員の会場で車いすラグビーの魅力を最大限伝えたい。そう思っています。そのためにも、チーム一丸となり、最高のパフォーマンスをつくり上げます。

友人たちのために輝く

19歳のとき、僕は、友人4人とのドライブ中に街路樹に激突しました。車は炎上。一命はとりとめたものの、全身の75%にやけどを負いました。左足を失い、右足と骨盤は骨折。膀胱は破裂し、左手は全く動かなくなりました。

同乗していた友人は大丈夫だっただろうか。心配で、両親やお見舞いに来てくれた友人たちに何度も尋ねました。そのたびに「大丈夫。みんな頑張っているから」と言います。一番大変なのは僕、とも聞かされました。「みんな頑張っているなら自分も頑張らなければ」と思いましたが、自分のために頑張るには、入院生活はあまりにも過酷でした。辛く痛いやけどの治療やリハビリに耐え切れず、いっそ死んでしまいたいとさえ思ったほどです。

もうこれ以上、自分で自分を支えきれない―。そう思ったとき、改めて「本当にみんな大丈夫なのか」と、両親に聞いてみました。そして、返ってきた答えに打ちのめされました。「実は、3人亡くなっている」。両親も友人たちも、僕のことを思って、ずっと嘘をついていたわけです。

本当にショックでした。でも、こうも思いました。友人たちのご両親は、息子を19歳で亡くした。それなのに、生き残った僕が死にたいなんて言ってはいけない。そして、友人たちの代わりに、這ってでも生き抜き、人に認められることを成し遂げ、輝かなければならない。そのためにもとにかく前へ進むしかないのだと。

そこからは、本当にリハビリを頑張りました。痛かったし、辛かった。それでも歯を食いしばって取り組むうちに、少しずつ、できなかったことができるようになり、やればやるほど自分が変わっていくのを実感できるようになっていきました。その手ごたえをエネルギーに、リハビリが進み、傷が回復して体の痛みも消えると、精神的にも余裕が出てきました。もともとスポーツが好きだったこともあり、僕にもできるものがあるならやってみたいと、気持ちがスポーツへと向いていきました。そして出合ったのが、車いすバスケットボールです。

池 透暢

車いすバスケットボールから車いすラグビーへ

車いすバスケットボールは、一般と同じゴールやボールを使います。違いは当然車いすを使うことで、いかに機敏に扱えるかのチェアワークがプレーの質を決めます。もともと中学時代にバスケットボール部に所属していて、そのときの顧問が、「競技経験も生かせるし、国際大会も開催されているから挑戦してみたらどうだ」と勧めてくれたんです。国際大会でメダルを獲れれば、多くの人から認められ、亡くなった友人たちにも報告できる。やっと光を見つけた思いで、退院後、すぐに競技を始めました。

しかし、チェアワークの鍵となる手が片方しか使えない僕にとって、簡単な競技ではありませんでした。それでも練習に打ち込み続け、6年ほどたった29歳のとき、初めて念願の日本代表候補の合宿に呼ばれました。目標は2012年のロンドン大会です。

なのに、やっと手が届きそうな実感を得られるようになっていた矢先、動脈瘤になってしまいます。それをきっかけに日本代表候補合宿に呼ばれなくなり、結局、ロンドン大会にも出場できませんでした。

しかし、これが次の出合いにつながります。ロンドン大会中のある日、テレビをつけると車いすラグビーの試合が映し出されました。しかも日本とアメリカの銅メダル争いです。僕は世界最高峰の舞台でメダル争いをしている日本代表の姿に釘付けになりました。

車いすラグビーは、車いすバスケットボールに比べて障がいが重く、四肢に障がいのある選手たちが残存機能を最大限に活用しながらプレーします。実は、それまで何度も車いすラグビーに誘われていたのですが、車いすバスケットボールの選手であることから断っていたのです。

でもこれなら、車いすバスケットボールで身につけたチェアコントロールなどの技術や、日本代表になると誓った決意も活かせますし、より障がいの状態が近い選手同士で競い合える魅力もあります。また、納得するまで競技を極め、自分の可能性を大きく広げられるのではないか。そして何より、天国の友人たちにしっかり生きて輝いている姿を見せられるのではないかと思い至り、競技を転向しようと考えました。

とはいえ、それをチームメイトに伝えるまではかなり悩みました。高知から日本代表を出そうと僕を支え、育ててくれ、プレー面のみならず、同じ境遇を生きる先輩として、人生の歩み方も教えていただきました。競技を転向するということは、お世話になった方々を裏切ることになるのではないか。そう思うと、すごく、すごく怖かった。

でも、僕の生きる目的は、日本代表というステージで、国民の皆さんに応援してもらいながらプレーすることにあります。そして車いすラグビーは、それをかなえるのに最も近い場所です。改めて自分の思いを確認し、思い切ってチームメイトに伝えると、「応援するよ」と、快く送り出してくれました。本当にありがたかったですし、その分、中途半端では終われないという覚悟も生まれました。

逃げなければ、道は拓ける

池 透暢

当時の車いすラグビーの日本代表コーチが、以前から車いすバスケットボールでの僕のプレーを評価してくれていたこともあり、転向後はすぐに日本代表合宿に呼ばれ、試合にも出場させていただけるようになりました。そして2年目にキャプテンに指名され、現在に至ります。

実は僕は、キャプテンといっても先頭に立ってチームを引っ張る強いリーダーではありません。もともと人が好きで、何かを決める際も、一人ひとりに意見を求め、話し合いながら進めるような人の想いに寄り添うタイプです。

もしそんな僕がキャプテンであることに必死になりすぎたら、視野が狭まり、みんなも苦しくなってしまうかもしれない。そうならないためにも、全員がリーダーシップを発揮できる環境をつくる存在でありたいと思っています。本当はチームを引っ張れるリーダーでなければならないのかなと本気で悩んだこともありましたが、結局、これが自分らしいキャプテンのあり方なのです。

人生には、イヤだとか、面倒くさいとか、自信がないなということがたくさんあると思います。僕の場合、入院中は生きていくこと自体がそうで、退院後に始めた一人暮らしや、車いすバスケットボール、就職、車いすラグビー日本代表のキャプテン就任もまさに同じでした。実は、世界選手権後のアメリカリーグへの挑戦も自信はなかったんです。

でも、どんなときでも逃げずにトライしてきました。トライすれば成長できます。新たなチャンスが生まれ、それがやがて大きなチャンスにつながることもあります。実際、どんなに辛い状況でもトライを続けることで人生が好転してきたという実感の繰り返しでした。だからこそ、目の前のことから逃げないことがモットーですし、それが新たな道を切り拓いてくれると確信しているのです。

周りの薦めもあって挑戦した2018‐2019シーズンのアメリカリーグでも、自分と向き合うことで課題を見つけ、成長できました。特に相手の戦力を見抜く力と、それに応じた戦略を組み立てる力、この2つの能力とスピードが上がりました。体とメンタルの総合力で戦えるようになった39歳の今こそ、選手としてピークにあると言えるかもしれません。今年の夏は、コートの中で自分の力を最大限に発揮し、日本の金メダル獲得に貢献します。

その後のことは、正直まだ分かりません。自分の半生を振り返ると、競技に傾きすぎていたなとも思っているんです。ですから、東京大会が終わったら、一度、腰を落ち着け、改めてゆっくりと自分自身と向き合うことで次の目標をみつけ、輝いていたいですね。

※所属・役職は取材当時のものです

池 透暢 池 透暢
車いすラグビー(ウィルチェアーラグビー)日本代表池 透暢(いけ ゆきのぶ)

1980年生まれ、高知県出身。19歳での交通事故をきっかけに車いす生活に。32歳より車いすラグビーを始め、高知のクラブチームFreedomでプレー。34歳で日本代表キャプテンに就任し、2016年リオデジャネイロ大会で銅メダル獲得、2018年の世界選手権優勝に貢献。2020年東京大会では金メダルを目指す。日興アセットマネジメント株式会社所属。

この記事をPDFで読む

  • LinkedIn

記事検索キーワード

株式会社 島津製作所 コミュニケーション誌