脳の働きが直接見える
認知症の診断を変えたPET装置の可能性

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知性を生み出す脳。
そこでは何が起こっているのか。
機能を可視化するPET装置を手に、迷宮の探索を続ける研究者の横顔に迫った。

脳の働き可視化装置

「脳は本当に不思議。だからこそおもしろい。加齢と病気による変化は紙一重なんです。脳の萎縮があっても、普通に元気な高齢者もいる。なぜなのか、まだ誰も答えに辿りつけていないんです」
と語るのは、東京都健康長寿医療センター研究所の石井賢二研究部長。神経画像研究、すなわち脳の画像解析・診断のスペシャリストだ。

石井 賢二

知性の源。脳は古くから神秘の対象となってきた。しかし、なぜ知性が生まれ、記憶が長期間保存されるのかなど、いまだにわからない部分が多い。病気についても同様だ。外傷であれば、ほとんどは見た目で判断が付く。消化管や呼吸器、血管なども、100年以上前に登場した医療用X線撮影装置で可視化できるようになったことで、治療法の研究は大いに進んだ。一方、脳はそう簡単にはいかなかった。
「脳の病気の場合、物理的な撮影画像ではわからないことも多く、原因の本当の正解を知るには、亡くなってから脳を直接確認するしかない時代が長く続いたんです」

1970年代、脳の研究者たちが目を輝かせる装置が登場した。PET(Positron Emission Tomography:陽電子放出断層撮影法)だ。投与した放射性の薬物が、血流に乗って分布する様子を撮影する。からだのはたらきに深く関わる分子に放射線を出すしるしを付け投与すると、がん細胞が体のどこにあるか、脳の障害がどこにあるかを可視化できるのだ。

80年代、石井氏は京都大学を卒業後、同大で神経内科の勉強をするなか、日本で先駆けて導入されたPETに出会った。そして神経内科医としてPETの可能性とおもしろさを強く感じていった。90年、神経内科医の知見を求められ、同年PETを導入した東京都老人総合研究所(現東京都健康長寿医療センター研究所)への入職を決めた。

「PETのおもしろさは脳の働きが直接見えること。これまではハンマーや音叉で患者さんの身体を刺激し、その反応から脳のどこに病気があるのかを推定していました。しかし、生きている人の脳のリアルな状態を見ることは難しかったんです。80年代、MRIの臨床がはじまり、小さな脳梗塞や腫瘍の位置も画像で調べることができるようになりました。しかしPETであれば、血流や神経伝達を測ることもできる。亡くなった後に解剖するまでわからなかったことが、生きた状態でわかるようになったんですから、PETなら脳をもっと理解できる。そう心を躍らせたものです」

患者かどうかわからない

石井 賢二

同研究所にとって、認知症の研究は特に成果が望まれる分野だ。なかでも半分を占めるとされるアルツハイマー病による認知症は、その克服に大きな意味がある。アルツハイマー病は、タンパク質の一種アミロイドβが脳内に蓄積することで、脳細胞が萎縮・減少していく病気で、世界で毎年1000万人ずつ患者が増えるといわれている。

「80年代にはすでに、アミロイドβが神経細胞の周囲にたまり、やがてそれに反応してタウタンパク質が現れて凝集し、脳細胞も死滅していくことがわかっていました。治療法の早期確立が期待されるなか課題となったのは、アルツハイマー病は診断自体が難しいということ。MRIで診断しても、本当にタウタンパク質があるかどうかは亡くなった後に確認するしかなく、結果、患者とされていた人の3割は、じつはアルツハイマー病ではなかったのです」

この病気で脳がどう変化するのかを正確に観察するには、30年以上もの時間が必要とされる。現実的ではないと言われるなか、2000年代、アミロイドPETが登場した。
「認知症の症状が無いのに、解剖すると脳に老人斑があったことがありました。アミロイドβは症状が無いうちにたまっていき、タウタンパク質の出現で症状が出始めるのですが、アミロイドPETで、症状が無い時期から時間軸で追えるようになったんです」

仮にアミロイドβの蓄積を阻害する試験薬ができ、アルツハイマー病による認知症患者として薬の効果や経過を観察しても、この病気でない人が含まれてしまうと、実際の効果がわからないという問題が生じてしまう。

「生活に支障をきたすような症状がはっきりして初めて認知症と診断されますが、それでも3割の誤診がある 。ましてや発症前後の症状が軽微な時期だと、ますます診断が不正確にならざるを得ません」

PETに期待されたのは、まさにここだった。認知症あるいは発症する前の人の脳の中で何が起きているのかをしっかりと見極める。石井部長らは、PETがまだがん研究がメインで、「認知症研究はこれから」とされていた時代から、そしてアミロイドPETという力も得て、薬剤や解析方法などの研究を長期にわたり地道に積み重ねていった。

アルツハイマー病治療の一里塚

その苦労が報われる日が来た。23年7月、エーザイなどが開発した「レカネマブ」は、原因を取り除くアルツハイマー治療薬として、初めて米食品医薬品局(FDA)から正式承認されたのだ。神経細胞の周囲に沈着するアミロイドβを除去し、1年後の進行を2~3割抑えられるという。

石井 賢二

「この成果にPETが果たした役割は大きいと思います。治療の対象となる人が正確にわかるようになったこと、投薬で神経細胞の周囲に沈着したアミロイドβがどうやって抜けていくかをつぶさに見ることができたことで、薬がどう効いたのか、治療継続の判断もできます。PETとMRIが日本で普及し、高い技術のベースがあったことで、アメリカなどと歩調を合わせて研究ができたことも、日本の研究者として感慨深いですね」

もちろん、これで終わりではない。
「進行スピードを2~3割抑えることが満足できるレベルかは、いろんな意見があると思います。でも、治験のなかで想定される項目はすべてクリアできた。大きな一歩なのです。だからこそ、治療効果をしっかり評価して、伝えることが大事なのです」

誰も気付いていないことを知りたい

石井 賢二

「入所後、2~3年たったら帰って来いよとかつての上司から言われていたのですが、もう少し、もう少しと言っている間に30年たっていました。データを見て、まだ誰も気付いていないことを発見するのが研究の醍醐味。脳とは人の知的な部分、個性であり経験、その人そのものなんです」

PETとアミロイドPETの進歩に30年以上にわたって貢献し、他の研究者では難しかった20年近くの画像追跡データを取り続けられたのは、同じ研究所で研究を積み重ねてきた石井部長だからこそだ。30年近く島津製PETのユーザーであった石井部長の研究者としての原動力はなんだったのか。それはまさに好奇心だという。

「こんなにも長く私がこの研究を続けられたのは、脳を知るおもしろさです。新しいこと、誰も気が付いていないことがわかっていくおもしろさ。それをPETが叶えてくれました。PETの確実な進歩とともに研究も進んでいます。長年のデータの積み重ねが道を拓いているのです。私は、最終的に脳は解明できると本気で考えています。研究者は、常に希望を持っていることが大事ですから」

人体最大の謎の解明へ。日本の認知症研究を支え続けてきた研究者の夢は尽きない。

※所属・役職は取材当時のものです。

石井 賢二 石井 賢二
東京都健康長寿医療センター研究所
神経画像研究チーム研究部長
石井 賢二(いしい けんじ)

1985年、京都大学医学部卒業、86年東京都老人医療センター神経内科に臨床医として入職。90年、東京都老人総合研究所ポジトロン医学研究部門、2009年より現職。専門は神経内科学。

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