脂質で健康診断
手のひらサイズの診断装置を確信し、夢を現実へと進めていく研究者の物語

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2050年、世界の高齢者人口は6人に1人。日本にいたっては2.4人に1人に達する。
だれもが健康な状態で長寿をまっとうできるよう対策が急がれるなか、最先端の研究開発現場では、体内の分子の動きを可視化する分子イメージングや標的医療が大車輪の働きを見せている。
岡山大学中性子医療研究センター・大学院医歯薬学総合研究科の松浦栄次教授に話を伺った。

ポケットに入る万能診断器

松浦 栄次

動脈硬化、アルツハイマー病、糖尿病、がん、リウマチ、感染症。

一見まったく別の病気のようだが、これらに共通する点が2つある。一つは、いずれも高齢者のQOLを大きく左右する病気であること。もう一つは、どれも脂質代謝と密接に関連していることだ。

「この事実からわかるのは、診断法を根本的に見直す必要があるということ。30年後には、血液一滴中の脂質成分バランスを測って、いろいろな臓器や健康の状況を一気に診断できる診断装置が現れるでしょう。それもスマートフォンのような手のひらに収まるサイズで」

驚くような「夢の健康診断器」の登場を確信するのは、岡山大学中性子医療研究センター・大学院医歯薬学総合研究科の松浦栄次教授。おかやまメディカルイノベーションセンターの副センター長でもある。また、その実績と人柄で、これまで著名な研究者が集まり、多くのプロジェクトを束ね続けてきた重鎮だ。

同センターは、分子イメージングの一大研究拠点だ。分子イメージングとは、体内の分子の動きを画像化して捉える技術。がんのPET検査が代表的だ。がん細胞は増殖が早いため、ある種の糖(グルコース)を大量消費する。この性質を利用し、グルコース誘導体に放射性同位元素を標識した薬剤(18F-FDG)を投与し、その体内分布をPETで画像化すると、悪性腫瘍の存在位置と大きさを捉えることができる。

「基礎研究機関で、放射性同位元素を製造するサイクロトロンを備えているところは国内では数えるほどしかなく、薬剤に標識するノウハウを私たちほど蓄えているところも少ないでしょう。そのため、創薬やイメージング装置開発に携わる企業や研究機関が私たちの施設にラボを構えて研究を進めています」

チャンスをうかがう企業や研究者が集積する様は、さしずめBITバレーならぬPETバレーといったところだ。

魔の川に橋をかける

松浦 栄次

分子イメージングが登場したのは、1970年代のこと。体の内部での「形」ではなく「機能」を観察できる技術は、多分野から支持され急速に普及した。なかでも恩恵を受けているのが、 先に示した“がんの臨床診断”ともう一つ創薬研究だ。

業界では、一つの新薬を開発するのに、9~17年の歳月と500億円かかるともいわれるが、あくまでも、それはうまくいった場合の話で、製品化できるのは2万5000件に1件の確率ともされる。

大半は実験動物で効果が示されてもヒトには無効であったり副作用が現れるなど失敗に終わることが多い。とくに「魔の川」として恐れられているのが、基礎研究と臨床開発研究の間に横たわる動物とヒトとの種の違いだ。

「サルの実験では狙っていた臓器にうまく薬剤が届いたのに、ヒトにおける体内分布が大きく異なりうまく使えなかったということも珍しくありません。ここを越えられず断念するプロジェクトが意外に多いのです」

臨床試験を大々的に行えば、多額のコストがかかるが、問題点を予備試験で事前に判断できればコストを大きく抑えられる。そこで2000年代に飛躍的に増えたのが、臨床本試験の前に行う「マイクロドーズ臨床試験」という試みだ。

本来の候補薬剤が有効性を示さないごく少量の候補薬剤をヒトの体内に一回だけ投与しPET観察すれば、狙い通りの場所に薬剤が到達しているかどうかが確認できる。試験結果が良好なら本格的な臨床試験に安心して移行できる。

同センターではマイクロドーズ試験に向けた非臨床試験(齧歯類〜霊長類までの様々な実験動物を用いる実験)ができる環境を提供しており、同センターに入居する製薬ベンチャーや製薬企業の当該分野における研究活動を強力に支援している。

近年、同センター自ら力を入れているのが、診断と治療を同時に行うことのできる「セラノスティクス(Theranostics)」という新しい概念に基づく「標的医療」の確立だ。

治療のための薬剤(たとえば、siRNA)を搭載したキャリア(薬剤搬送システム:DDS)を前出のがんPETマーカー同様、放射線標識し、さらに的確にがん細胞に届けるための分子標的剤(ヒト型低分子抗体(scFv))を修飾する。

島津製作所と京都大学とで共同開発した生分解性ポリマーからなるミセル型粒子を用いることで、人体への安全性をより高めたバイオ標的医薬が完成する。これを静脈投与すると、腫瘍病巣へまっすぐ当該医薬を届けられ治療が可能になるとともに、腫瘍の位置や大きさ、合わせて薬剤の治療効果をPETで確認できる。患者さんや術者の負担は半減し、医療コストの低減にもつながる。

「この種の標的医療は、がんだけでなく、粥状動脈硬化が原因で発症する急性心筋梗塞や脳梗塞など、閉塞性血管障害の特異的治療にも寄与することができます」と期待をのぞかせる。

健康寿命を延ばす切り札に

こうした研究を積み重ねた先に遠望しているのが、冒頭で紹介したポケットタイプの「健康診断器」だ。搭載されるのは、あらゆる疾患の脂質プロファイルと脂質バランスを分析する超小型の質量分析計。

「健康寿命を延ばすには、未病の状態でどれだけ対策できるかが重要です。いまの血圧計や血糖値測定器のようなコンパクトなサイズにも関わらず、様々な病気のリスクを診断できる装置を作ることができれば、多くの医療・健康分野、あるいは創薬分野で使ってもらえると期待しています」

一滴だけ血液を取って、脂質を簡便に解析し、健康状態の把握、発病予測が容易になることで、医療指針が適切に決められるほか、日常では、運動や食事で自己管理できるようになると松浦教授は言葉を強める。

現在の基礎医学研究では、脂質プロファイルを作り、様々な疾患動物モデルから採取した血液サンプルの解析が進められつつある。

たとえば、脂肪の多い食事を摂取したある種の遺伝子改変マウスでは動脈硬化が発症しやすく、この種の病態と脂質異常の解析を行うことができる。また、アルツハイマー、がん、リウマチなど自己免疫疾患、糖尿病、あるいは、微生物感染と脂質代謝の関連についても、動物モデルで解析が進んでいる。

完成すれば、この種の脂質分析のみで、多様な疾患の診断、無病対策、発症後治療が容易になる。また、この種の診断技術とセラノスティクス(標的医療)が両輪となり、さらなる健康と福祉を推進できると松浦教授は確信している。

「もちろん私たちだけの力では難しいので、いろいろな方々に協力をお願いしています。皆さん夢の装置だと目を輝かせて聞いてくださいます」

一人の研究者として、その実現を心から願い、現実の物語へと進めていく松浦教授の人柄と強さに、多くの研究者が集まってくる。

だれもが健康の喜びを謳歌できる世界へ。大きなチャレンジが始まった。

※所属・役職は取材当時のものです

松浦 栄次 松浦 栄次
岡山大学中性子医療研究センター・大学院医歯薬学総合研究科 教授
産学官連携センター(おかやまメディカルイノベーションセンター)副センター長
松浦 栄次(まつうら えいじ)

1957年愛媛県出身。1984年度岡山大学大学院薬学研究科修士課程修了。医学博士。米国留学、企業の研究所勤務、北海道大学医学部助手などを経て、1997年から岡山大学。2011年より教授。同年設立された産学官連携センターの立ち上げや運営に携わり、分子イメージング、抗体医薬、セラノスティクスの研究開発に力を注いでいる。

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