Special edition“new wave”

田中耕一が考える科学技術の使命

  • LinkedIn

科学技術は人類を大いに発展させた。島津製作所もその一端に連なり、社会への貢献を目指してきた。しかし、いまだ人類は多くの課題を抱え、未来のシナリオは必ずしも明るいものばかりではない。
ライフサイエンスをも加速化させた質量分析装置を島津製作所が発売して50年となる今年、当社エグゼクティブ・リサーチフェローで、田中耕一記念質量分析研究所所長でもある田中耕一に改めて、科学技術と人類の未来について聞いた。

長足の進歩を遂げた質量分析

田中 耕一

私は1983年の入社以来、島津製作所で一貫して質量分析法という分析技術の研究開発に携わってきました

質量分析とは試料をイオン化してその重さを測ることで、どんな物質がどれくらい含まれているのかを見ることができる方法です。この質量分析法が誕生したとされるのが1919年。100年前のことです。

島津はそれから50年後の1970年に、世界初の量産型ガスクロマトグラフ質量分析計を製造したスウェーデンのLKB社と提携してLKB-9000を日本に導入しました。今年はそれからちょうど50年という節目の年にあたり、私も大きな感慨を覚えています。

入社した当初、当社では、オリジナルのガスクロマトグラフ質量分析計を主力製品としていましたが、当時の装置は、部屋を埋め尽くすほどの大きさでした。それがいまや電子レンジほどのサイズのものまで登場しています。感度は1億倍以上になりました。分子の重さを見分ける分解能も、当時とは比べものにならないくらい向上しています。その進歩は、さまざまな分野で応用され、環境中の微量な汚染物質を分析することで公害の克服に貢献したり、薬品成分の体内変化を解析して、効果的な薬の開発に貢献したり、あるいはまだ原因がよくわかっていない病気のメカニズムの解明にも役立てられたりしています。

また、私の失敗を参考に大いに発展したMALDI-MS(マトリックス支援レーザー脱離イオン化質量分析法)によって、それまで分析が不可能だったタンパク質のような巨大な分子を壊すことなくイオン化して、計測できるようになりました。

私たちの研究所では、アルツハイマー病の原因物質と考えられるアミロイドβの脳内蓄積状況を血液でみるという研究に取り組みましたが、国の最先端研究開発支援プログラム(FIRST: 2010年3月~2014年3月)の30テーマの一つに採択されたことがきっかけの一つでした。

当初は絶対に無理だと言われていたのですが、国立長寿医療研究センターをはじめ、さまざまな最先端機関との連携のなか、所員と一緒に諦めることなく一つひとつ実績を積み上げ、2018年にはネイチャー誌で発表することができました。

しかし、発表して終わりではありません。まだまだやらなければならないことがたくさんあります。分析の自動化、一日の検体数を増やすことなど、現場で使っていただくための研究開発を、産学官連携のもと多くの方々といまも進めています。

いま注目されている感染症においても、微生物については、以前からレーザーイオン化法の応用として研究してきました。感染症検査に質量分析を用いれば、従来よりも早く原因を突き止めることができます。その分、重症化する前に適切な治療をすすめられますし、感染拡大を防ぐことにつながります。特に細菌については、すでに世界中で質量分析による判定が導入されています。

残念ながら、新たな感染症は次々に現れるでしょう。今後はウイルスについても質量分析によって判定する方法がないか、会社の中でもいくつもの関係部門と連携しながら検討しているところです。

MALDImini-1
世界最小サイズを実現したMALDIデジタルイオントラップ型 質量分析計MALDImini-1
設置面積がA3サイズを下回るコンパクトさでありながら、微量なサンプルからの分子量測定はもちろん、複雑な分子構造解析までも対応できる製品。

「役に立つ」という意味

田中 耕一

これに限らず、私たち人類は、科学技術によって見えないものを見えるようにしたり、その応用として健康で安全な社会を生み出してきました。にも関わらず、「科学は役に立たない」という論調があることに懸念を抱いています。

原理を応用して製品化を目指す技術開発に比べて、ノーベル賞などにつながる基礎研究を行う科学は、すぐには経済的効果を生まない、だから科学は「役に立たないもの」というレッテルを貼っているのだと思います。本当にそうなのか。

科学も技術も、私はどちらも役に立っていると考えています。人が人として存在し続けるために、科学技術は必要不可欠な要素なのです。たしかに技術は、実社会に便利なものを届けようとして進歩するものですから、役に立っていることが分かりやすい。それに対し科学は、深く根ざした部分で役に立っていると私は思うのです。

科学は、まだ人が知らないものを知りたいという、いわば「好奇心」に導かれて進歩する。それに対して、技術は人の役に立ちたいという「公共心」に導かれている。

私自身もそういう思いを抱いて実験に臨んできました。「好奇心」と「公共心」、日本語での発音はよく似ていますね。

そしてこの2つは、他の動物と比べると人間が明らかに多く持っています。そのおかげで人間は地球上でこんなに繁栄してこられたのです。この2つは人間の発展を支える両輪であって、どちらが欠けてもだめなのです。つまり、人であり続けることに科学は役に立っている、と思うんです。

人類におごりはないか

少し前に“地球に優しい”という言葉が流行りました。それがいまはSDGsに大いに進化したのですが、それに人間のおごりがまだあるように思えます。それよりももっとマクロな視点、長い歴史を踏まえた視点を持つべきだと考えています。

SDGsを日本語に訳すと、“持続可能な開発目標”。これには主語がありませんが、人類を指すのでしょう。人類が世代を重ね、地球で末永く暮らし続けられるように、地球環境を「守り」ながら開発するという目標です。

“地球に優しい”も地球から見れば、人間が「優しく」しようがしまいが 関係ない。地球にとっては、人間の活動は、宇宙という大きな流れの、ほんの一コマにしかすぎないのです。太古の地球、シアノバクテリアが酸素を大量に放ち、それまでの生物を全滅させた、と聞いていますが、それでも地球は続きました。人類やいまの生物が繁栄できたのは、隕石の衝突で恐竜が滅びたからだと言われていますが、長い長い地球の歴史のほんの一部なのです。

SDGsの考え方を進める場合、人と自然を切り離して考えるよりも、人類の存在自身、その文明さえも、地球が生み出した広い意味での“自然現象”であり、人は自然の一部である、という日本や東洋の文化として馴染みのある考えを参考に、SDGsの理念のさらに先の目標・到達点を見出していけたらよいと思っています。

いま、「何をすればよいか」を自分ごととして、自分の頭で考えて進められるようになれる方がよいと思うのです。

今回の新型コロナウイルスへの対応でも、こうした視点は持っておくべきでしょう。いま克服を目指して世界中が力を合わせていますが、消滅させてしまうことはできません。

人類はこれまでも、多くの感染症を経験してきました。それは、消滅させたのではなく、私たちの遺伝子の中に、細菌やウイルスの一部を取り込むなどして共存してきた部分もあります。

今回も「withコロナ」という言葉が生まれているように、できるかぎり危険を避けて長く付き合うという視点も持ったほうがよいと思います。

イノベーションは異分野の出会い、異なる視点から

私自身もそうですが、人間、一人だけで何ができるかというと、まったく知恵が足りません。だからこそ、大切なのが異分野融合、異業種連携です。

実際、新型コロナウイルスが蔓延して以来、これまで医療や創薬には携わってこなかった企業や個人が、続々とアイデアを出し、製薬会社や我々のようなメーカーとの間で協業し、思ってもみなかった工夫、製品が次々と誕生しています。

いままで出会うことがなかった人が出会い、想像することもできなかった意見に触れることで、イノベーションが生まれやすくなったと思います。技術革新と訳されたイノベーションの元来の定義は「新結合、新しい捉え方・活用法」ですので、当然の流れとも言えます。

いま私がいる昨年できたばかりの建物には、1階にサロンのような空間がつくられています。社外の方も訪れてくださっていて、ここでの議論を、「じゃ、ちょっと試しましょうか」と研究室で早速テストしてみる、なんていうスタイルが生まれています。

さらに、離れた棟にいた他の技術や研究部隊の多くが、ここに集まっています。当社が発売した迅速PCR検査キットのチームも、訪ねるのに15分ほど歩かなければならなかったのに、いまは1分もかかりません。そういう人たちが机を並べて研究できるようになりました。

私はいつも、あえて会社の中を歩くようにしているのですが、この建屋に引っ越してくるまで、せいぜい一日4~5千歩程度でした。しかし、いまは1万歩を超えています。場所が近くなったら歩かなくてよくなるはずなのに、なぜか増えている。つまりそれだけいろいろな人と会う機会が増えているということなんですね。おそらく他の人も同じことになっていると思います。この先、これがどういう結果につながるか、かなり期待しています。

若手が勝手に育つ環境とは

田中 耕一

私は17年前からいまの研究所を、そしてある期間、国の最先端研究開発支援プログラムで所長を任せてもらいましたが、リーダーとしては本当に至らないことだらけです。

やってきたことといえば、メンバーの研究を見て、「それ、おもしろいね。続けてみたら」と後押ししたり、「それ、失敗に見えるかもしれないけど、こうやってみたら別に活かせるんじゃないかな」といった見方を示すことくらいです。

私自身、20代は口下手で赤面症で、人前でうまく表現できませんでした。それでも上司や先輩方が良いところを見つけ、褒めて育ててくださいました。

月一回の研究所内の発表会で褒めてもらい、年一回の社内発表会で自信をつけ、学会参加へと発展し、そこでの恩師との出会いから結果的に世界につながったという経験が、いまの私へと導いてくれました。

ですので、若手には、失敗を恐れずおもしろがってほしいと思っています。それがもしかしたら世界初の発見につながるかもしれない。

私は昔からあまのじゃくで、「人と同じことを考えても天才には追い付けない」と考えていました。ですから、メンバーが失敗して目標から少しずれてしまったとしても、私から見て良いと思ったものは素直に伝えています。

そんな私のようなリーダーの下でも、研究所として15年目には、100を超える論文を発表できたことは、それなりに意義のあることだったのではと思っています。

課題解決先進国へ

この「ちょっと違う視点で見てみる」というのは、実はとても重要なことだと思います。

私は試料に混ぜる混合物の材料を間違い、もったいないと試したことから、タンパク質をイオン化する方法を発見しました。

私は大学では電気を専攻していました。もし私が化学をしっかり学び、知識を十分に持ち合わせていたら、間違った混合物を使ってみるなんてことはしなかったと思います。

裏を返せば、私が門外漢だったからこそたどり着けた成果でした。これも異分野が垣根を超えて交わった結果の一つと言えるでしょう。

日本は、少子高齢化をはじめ、いくつもの課題がある課題先進国と呼ばれています。一方で、災害復興や公害など数々の課題を先人たちが解決してきた課題解決先進国でもあります。

その歴史を受け継ぎ、いま現在も、目の前の多くの課題を解決するために、あらゆる分野の方々が枠を超えて連携し、知恵を出し合い、汗を流しています。私たちはこの素晴らしい事実を改めて認識し、そして大いに自信を持ってよいと思うのです。

課題解決に向けたこうした知恵や努力は、将来、世界に届けられて役に立つことになるはずです。微力ながら、私もそこに連なるいち研究者として、これからも力を注いでいきます。

田中耕一記念質量分析研究所の歴史 ~見えないイオンで、未来を見る~

2003
田中耕一記念質量分析研究所 始動

田中耕一記念質量分析研究所(通称MS研)が誕生した。結成当時メンバーは6人、うち技術系は所長含む3名であった。

2006
Hillenkamp教授来訪

Hillenkamp教授来訪

MALDI法開発・命名者として知られるHillenkamp教授が当社に来訪され、ご講演を頂くと共に社内MS関係者・技術者と討論会を行った。

2008
DIT-MSシアトルへ

DIT-MSシアトルへ

Fred Hutchinson Cancer Research Centerとの共同研究のため、開発したスキャン型デジタルイオントラップ質量分析計(DIT-MS)をシアトルに空輸し、据え付けを行った。O型糖ペプチドの疾患バイオマーカー探索が目的であり、のちにnature protocolsに論文が掲載された。

2010
田中最先端研究所始動

田中最先端研究所始動

田中耕一を中心研究者(所長)とするFIRST(最先端研究開発支援プログラム)のひとつ「次世代質量分析システム開発と創薬・診断への貢献」のため、質量分析研を中心とする『田中最先端研究所』が始動。

2011
Mass++ ver 2.0をリリース

Mass++ ver 2.0をリリース

種々の質量分析装置から得られたデータを解析することができるフリーソフトウエアであるMass++の操作性や視認性を高め、機能を拡充した version 2の公開を開始した。

2014
アルツハイマー病の血液バイオマーカーを発見

国立長寿医療研究センターとの共同研究で、アルツハイマー病の原因物質アミロイドβの脳内蓄積を血液で推定できるバイオマーカーを質量分析システムを用いて発見した。

2015
ATHAPリリース

ATHAPリリース

疎水性ペプチドを高感度に測定出来る新規マトリックスATHAP™の商品化をASMS2015でプレスリリースし、翌年より販売開始した。MS研技術初の商品化となった。

2018
論文が100本超に

論文が100本超に

現旧所員が筆頭著者または共著者となった論文数が研究所創設以降、累計100本を超えた。

2018
アルツハイマー病変の早期検出法を血液検査で確立

アルツハイマー病変の早期検出法を血液検査で確立

2014年に発見した血液バイオマーカーを発展させ、その有効性を国内外の多検体を用いて検証した。

2019
MALDImini-1を発売

MALDIは、MS研が重点的に取り組んできたMS法であり、デジタルイオントラップ技術を分析計測事業部と共同で製品化。MALDImini-1により、世界最小のサイズと構造解析機能の両立を実現した。

2020
HiRIDがNature Chemに掲載

HiRIDがNature Chemに掲載

当研究所が開発した質量分析法「HiRID™-MS/MS」を用いた東京大学との共同研究成果がNature Chemistry誌に掲載された。

田中  耕一 田中  耕一
島津製作所エグゼクティブ・リサーチフェロー
田中耕一記念質量分析研究所所長
田中 耕一(たなか こういち)

1959年、富山県生まれ。東北大学工学部卒業後、島津製作所に入社。質量分析法の開発に携わる中、「ソフトレーザー脱離イオン化法」を開発し、その功績が認められ、2002年ノーベル化学賞を受賞。2003年、田中耕一記念質量分析研究所開設とともに所長に。2010年3月~2014年3月、国の最先端研究開発支援プログラムFIRSTにおいて田中最先端研究所の所長を兼務。その後も島津製作所の企業研究者・エンジニアとして、装置や分析手法の開発に携わっている。

この記事をPDFで読む

  • LinkedIn

株式会社 島津製作所 コミュニケーション誌