オール金属で挑む、ブリヂストンの月面タイヤ開発

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2029年、月への打ち上げを目指す月面探査車「ルナクルーザー」。
そのタイヤを手掛けているのがブリヂストンだ。
「ジャパンモビリティショー2023」でも注目された金属製のタイヤはいかにして生まれたのか。

指名で始まった月面タイヤとの関わり

トヨタ自動車から、突然ブリヂストンに連絡が入ったのは、2018年。「ルナクルーザー」の計画が正式に発足する1年ほど前のことだった。名指しされた河野好秀氏は、同社のフェローで次世代技術開発担当。トラック・バス用タイヤをはじめ、さまざまなタイヤの構造開発に関わってきた、その道のエキスパートだ。

「15年ほど前に、JAXAの月面ローバ向けタイヤを設計したことがあり名前が挙がったのだと思いますが、今回のルナクルーザーのプロジェクトは、そのときと比べ物にならないほど大きなものとなりました」(河野氏)

かつて手掛けたという月面ローバの重量は50キログラム程度。月の重力が地球の6分の1であることから、一つのタイヤにかかる荷重は2キログラムほどだった。それに対して「ルナクルーザー」の大きさはマイクロバス2台分、フル積載では相当な重量になりそうな巨体を6つのタイヤで支えることになる。

河野 好秀

「初めて重さを聞いたときには『これは大変だ』と思いました。しかも、月面には空気がありませんし、夜はマイナス170℃という低温になるためゴムが使えません。完全にゼロから設計しなければなりませんでした」

しかも、月の表面はレゴリスと呼ばれる非常に細かい砂で覆われている。レゴリスの上を埋もれることなく走行でき、1万キロメートル以上にもなるという行程を走り切る耐久性を持ったタイヤが求められるのだ。

「モビリティの移動を支え、丸くてスムーズに回転するものはすべてタイヤです。私にはできないとは言えません」

困難なプロジェクトになるのは明らかだったが、同時に湧き上がってくる気持ちがあった。河野氏にとって「月は夜見るだけ」の存在だった。だが、もともとブラックホール等の宇宙は好きだったことから、「まだ誰も発見していない月面での水の痕跡を見つけることに貢献できれば、日本の技術力、ひいては自社の技術力を世界に示すことができる」との強い想いで月面タイヤの開発にのめり込んでいった。

失敗を何度も繰り返すことでプロトタイプが完成

そして考案されたのが、オール金属製のタイヤだ。「月面で使えるものが金属しかなかったというのが正直なところ」と河野氏は話すが、金属でありながらゴム製空気入りタイヤのような走破性と乗り心地を実現するために、表面はスチールウールのような柔軟な構造とし、内部構造には、しなやかにたわむ弾性を持たせた。

タイヤの写真

表面の柔軟な構造は、砂漠で重い荷物をのせて運ぶラクダの足裏にある、ふっくらとした肉球からヒントを得たもの。柔らかくして圧力を分散する狙いだ。接地面積を稼ぐため、トラックで使われている2本が一対となったダブルタイヤ構造を採用し、一般乗用車の約6倍もの接地面積を実現した。また、タイヤと路面が接触する部分が、バイクのタイヤのようにラウンド形状となっているのは、砂地を走るオフロードマシンを参考にした。これならタイヤを砂に埋めながら、サイド部分も使って進んでいくことができる。

理にかなった構造に思えるが、プロトタイプを作り上げるまでは試行錯誤の連続だった。金属製のタイヤを作った経験はもちろんない。金属加工や板金などの異業種の知恵を借り、一つひとつ町工場で丁寧に手作りする工程を繰り返しながら、カタチになるまでには多くの失敗を積み重ねた。

「20回以上の失敗を重ねて、ようやくプロトタイプが出来上がりました。材料力学や構造力学の知識をフル活用し、その設計図で町工場にお願いしたら、自宅に戻る頃には『もう壊れました』とメールが届いていたこともあります。でも、こうしたゼロからの開発は、できるだけ早いうちに小さな失敗を重ねることが大切なので、フットワークのいい職人さんたちと組んで動けたのは幸運でした。その分、短いサイクルでPDCAを回せましたから」

初めて用いる材料の耐久性の確認には、島津製作所の電磁式疲労試験機も活躍した。表面のスチールワイヤーはもちろん、内部の弾性構造の耐久性を確かめるためにも欠かせない工程だ。その試験機の第1号は、実は河野氏が導入したもので、当時、島津製作所の社内では「河野モデル」と呼ばれていた。

人類の歴史を支えてきたタイヤとともに

そうして完成した月面タイヤのプロトタイプは、「ジャパンモビリティショー2023」(旧:東京モーターショー)でも多くの注目を集めた。だが、次なるチャレンジはもう始まっている。

「プロトタイプでは、岩場は避けて、レゴリスの上だけを走る想定でいましたが、車体のサイズを考えると、岩の転がっている場所を避けるのは難しいということになりました。さまざまな大きさの岩を乗り越えられる仕様にする必要があります。しかも、資料を見ると、月の岩はかなりエッジが立っていて、表面のスチールワイヤーが破損してしまう恐れもある。そのための仕様に、設計変更をしているところです」

LUNAR CRUISER(c)TOYOTA
LUNAR CRUISER ©TOYOTA

地球上であらゆる過酷なシーンに対応するタイヤを手掛けてきたブリヂストンでも、月面を走破するタイヤを作り上げることは一筋縄ではいかないようだ。一般的なタイヤの開発は、車体側の仕様がある程度決まったうえで進められるが、ルナクルーザーの開発は、月面を経験した者がいないなか、あらゆるものの開発が同時並行で行われる。

しかし河野氏は、そんな状況をも楽しんでいるように見える。また、空気もなくゴムも使えない極限の環境に対応したタイヤを開発することで、これまでにない状況で用いるタイヤについてもイメージが膨らんでいるようだ。河野氏の口ぶりからは、確かな自信がにじみ出ていた。

「あくまでも個人的な感想ですが、深海を走るモビリティなども可能かもしれないと考えています。海底ケーブルのメンテナンスは潜水艇で行われていると聞いたことがありますが、海底を走ることができればもっと安定して、作業も楽になるかもしれません」

人類における偉大な発明とされる「車輪」。その歴史を遡れば、紀元前3000年に存在したメソポタミア文明の時代に原型は存在したとも言われる。

「そこにゴムを用い、空気を入れるかたちになって約140年。自動車の動力源は内燃機関に加え電気モーターなど多様化しつつありますが、動力がどうあれモビリティが存在する限りタイヤがなくなることはないと思っています。今後5000年は存在し続けるかもしれません」

アフリカで生まれた人類は、フロンティアを求め続けるように全世界へ活動範囲を広げてきた。そのフィールドは、宇宙へとさらに広がっていく。

※所属・役職は取材時のものです。

河野 好秀 河野 好秀
株式会社ブリヂストン
フェロー タイヤ研究統括部門
河野 好秀(こうの よしひで)

工学博士。1985年、東京大学大学院船舶工学科修士課程を修了しブリヂストンに入社。以後、研究部門で製品開発を手掛け、トラック・バス用タイヤをはじめ、さまざまなタイヤの構造開発に従事。

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