The Moment

二人の島津源蔵による軌跡

vol.8

命も科学である。

「人体模型・標本」

京都は、知る人ぞ知るマネキンのメッカである。
株式会社七彩をはじめ、大手メーカーが肩を並べる。
その源流が、いまはなき「島津マネキン」だったことを知る人は少ないかもしれない。

科学技術の島津製作所がマネキンを作っていたとはどうも想像しにくいが、全盛期の昭和12年には全国生産の85%以上を占める独占企業だった。

島津マネキン
島津マネキン

その後、戦時色が濃くなり「マネキンはぜいたく品」との声によって生産は中止され、戦後島津ゆかりの人々にマネキン製作が引き継がれていったのである。

仏具職人であった源蔵は、科学分野の広さを知らなかった。
西洋の教科書や理化学会で勉強を積むうちに、「命も科学の領域なのだ」と気づく。
外国では博物学が盛んで、動物や植物、生命ではないが鉱石も研究の対象になっていた。
源蔵にとっての科学は人体にまで広がる。

昭和12年頃のマネキン工場風景
昭和12年頃のマネキン工場風景

医学のためというよりは、子どもたちに生命の神秘を教えたい。
そんな思いを強くした。
人体の構造や動物・植物の生態は講義だけで理解できるものではないと、発行していた「理化学的工芸雑誌」でも毎号訴えた。
その源蔵の遺志を継いだのが、二代源蔵をはじめ3人の息子たちである。

つつじの花模型(ファイバー)
つつじの花模型
(ファイバー)

初代源蔵が亡くなった翌年の1895年(明治28年)に標本部を新設した。
今までの器械製作とはまったく異なる技術と知識が必要だった。
京都や東京から大学の教授を顧問に迎えて指導を受け、専門家をスカウトして入社させた。
全国の学校や島津の駐在員から鉱石等を収集するルートも作り上げた。

標本部(明治28年創設)社屋全景
標本部(明治28年創設)社屋全景

最初は植物模型や鉱石標本からのスタートであったがやがて人体模型も手がけるようになる。
島津らしく、いったん作ると決めると徹底的に作りこむこだわりをみせる。
従来、石膏に漆を塗った重い人体模型が紙に樹脂を塗る島津ファイバー製に替わっていった。
島津ファイバーは軽くて発色がよく、水にも強い製法で特許を取得している。
最終的には138ものパーツに分解できる人体模型が発表された。
それは、子どもたちにとって初めて見る「人間」の仕組みであり、「生命の神秘」であった。

人体模型
人体模型

標本部は、理化学器械と並ぶ島津の2大部門に育ったが、昭和初期、世界恐慌のあおりで教育予算が大幅にカットされるとビジネスとして成立しなくなった。
長年培った「人体」の製造知識を生かしたのが後のマネキンビジネスにつながり、標本部は現在人体模型のトップメーカーである株式会社京都科学へと受け継がれて発展していったのである。

標本製作の作業風景
標本製作の作業風景