The Moment

二人の島津源蔵による軌跡

vol.4

「科学は実学、の精神が生んだX線装置」

明治の終わり頃の話である。
現在の京都府亀岡市にあった貯水池の排水溝が詰まってしまったことがあった。池の水が外に流れず、いい修理法もなかった。
困り果てた人々は「あの人なら、なんとかしてくれるんじゃないか」との期待を込めて島津製作所の二代島津源蔵に頼むことにした。

相談を受けた源蔵は、即座に新たな排水装置を考え出し、施工を指示した。それはサイフォンの原理を応用したもので、瞬く間に水位が下がり、亀岡の貯水池を元の姿に戻してしまった。

「科学は実学である。人の役に立たなければ理論だけ知っていても意味がない」。社員に対して常にそう教えていた源蔵らしいエピソードである。「科学技術で社会に貢献する」は、今も島津製作所の重要な社是になっている。

サイフォンの原理
サイフォンの原理

1895年(明治28年)。
ドイツのレントゲン博士がX線を発見し、「放射線の新種」として医学雑誌で発表された。この発見はのちに、記念すべき第1回ノーベル物理学賞を受賞することになる。翌1896年(明治29年)、日本でも研究が始まった。
京都では第三高等学校の村岡教授が電源設備のある島津製作所を実験場に選んだのである。

レントゲン博士
レントゲン博士

源蔵は、わずか15歳のときに「感応起電機」を完成させ、その才能で周囲を驚かせた。高電圧を発生させる機械で、当時「島津の電気」は有名だった。
X線の撮影は、当初失敗を重ねたものの、源蔵が改良した発電機を使ってついに成功した。レントゲン博士の発見から、わずか11ヵ月後のことだった。

話はここで終わらない。
じつは、X線撮影に成功したのは源蔵だけではない。
時期は多少前後するものの、他にも日本国内で成功した研究者は何人かいたのである。
しかし、他はすべて「研究」だけで終わってしまった。
たんなる撮影から実用化を目指したのは源蔵だけであった。

ウィムシャースト式感応起電機
ウィムシャースト式感応起電機

源蔵は1897年(明治30年)には早くも教育用X線装置を完成させる。実際にX線を使って実験ができるこの装置は、教育界にとってエポックとなるものだった。
1900年代に入ると、海外から医療用X線装置が輸入されるようになった。
それに負けじと、源蔵の研究開発にも熱が入る。

教育用X線装置
教育用X線装置

そして、初のX線撮影から13年後の1909年(明治42年)。
島津製作所は国産第1号となる医療用X線装置を世の中に送り出したのだ。

ベンジン発動機を用いて蓄電池に充電する方式のこの装置は、千葉県の陸軍病院をはじめ多くの病院に納入された。
「人々の役に立たなければ意味がない」。その考えはX線の装置だけにとどまらなかった。源蔵は放射線技師を育てる学校を作る。(現在の京都医療科学大学)
自ら校長となり、技術だけでなく患者の心のケアもできる技術者になれ、と教えた。
島津製作所は、X線装置のパイオニアとして今もなおこの分野の最前線を走っている。その原点には、「研究者」ではなく「人間」としての源蔵の精神が生きている。

1921年頃のX線装置による診察風景
1921年頃のX線装置による診察風景