The Moment

二人の島津源蔵による軌跡

vol.5

好奇心が原動力。

「理化器械目録表」

島津製作所、最古の製品カタログといわれる「理化器械目録表」。
その末尾には、こう書かれている。
「御好次第何品ニテモ製造仕候也」。

私に作れないものはない、という初代島津源蔵の自信のあらわれに見える。しかし、源蔵はけっして豪放タイプの男ではなかったと史実は伝えている。

貪欲に知識を吸収する熱意や、ひたすら客の要望に応える人柄が評価され、京都府の高官と接する機会が増えていったが、職人上がりの源蔵は、緊張のあまり酒を一杯飲んでから出かけないと、思うことが言えないこともあったという。

理化器械目録表
最古とされる理化器械目録表

「理化器械目録表」は1882年(明治15年)に発行されている。創業から7年目のことである。
その間、事業が順調だったわけではない。
もともと学校向けに輸入された理化学器械を修理しているうちに見よう見まねで製作を始めた、というのが実際のところだ。
失敗やクレームも多く、経済的に追い込まれたことも少なくなかった。島津製作所を創業してからも仏具の注文を受けて苦境をしのいだ。

雇用人の給料が払えず困っているときに、京都千本にある寺院の鉦(仏堂に吊り下げられる仏具の一種)などを作る仕事が舞い込んだことがある。資材運搬や鋳型に使う穴掘りを手伝わされた、息子である二代源蔵は、思いがけない仕事に父はたいへんうれしそうだった、と後年語っている。

理化器械目録の汽車と蒸溜器
理化器械目録の汽車と蒸溜器

モノづくりに対する初代源蔵の原動力は、枠に納まらない好奇心だった。 有人気球の製作でもそうであったが、仕事を請けるとき、自分にその知識があるかないか経験があるかないかは源蔵の判断基準にはなかったようだ。
逆に、初めて見る器械ほど興味を惹かれた。
「面白そうだ。やってみよう」。
だから試行錯誤を繰り返すのは承知のうえ、ただただ客の要望に全力で応える。

新しい器械を作り上げたときの充実感と、人が驚いたり喜んだりする顔を見ることに限りない幸せを感じる、そういう人物だったと思われる。
どうしても自分で作れないものは他の業者に作らせ、それでも作れなければ西洋から輸入してでも客に提供した。
その中には、エジソンの蓄音機も含まれている。

エジソンの蓄音機
エジソンの蓄音機

機能一辺倒で無機質な理化器械に、楽しさを取り入れたのも源蔵ならではの発想だろう。
実験用真空ポンプでは、ガラス筒の中にローソクや鈴を入れ、火や音が消える現象が見えるようにした。子供たちからすれば、手品を見ているようだったであろう。避雷針の実験器機には、雷の様子がよく分かるように家の模型を使っている。ただ原理を教えるだけでなく、科学への興味を持たせることを大事にしたのだ。

失敗と成功を重ねながら、最終的には110点もの製品を掲載した目録表ができあがった。
それは、小学校ばかりでなく、中学校や師範学校の理科実験にも使用できる幅広い製品群だった。
仏具職人は京都にたくさんいる。しかし理化器械は誰も作っていない。初代源蔵は、自信にあふれた男ではなかったが、自分の決めた道は貫こうという信念は、あふれるほど持っていたのである。

避雷針の実験器機
避雷針の実験器機