The Moment

二人の島津源蔵による軌跡

vol.7

技術は時を超えて。

「ニューオーロラ号」

医療用X線装置「ニューオーロラ号」は1918年(大正7年)ごろに製造されたもので、中には約50年にもわたって現役で診察に使用されていたものもあったという。
技術の進化が早い現在と単純に比較するわけにはいかないが、1台のX線装置に、どれだけの技術と情熱を注ぎ込んでつくられたのかがよくわかる。

1918年といえば、ようやく日本の医学界にも放射線装置が本格的に普及してきた頃だ。
輸入品全盛の中、島津製作所は国産メーカーとして孤軍奮闘していた。
当時のX線装置は病院にある数多くの機械の中でも最高級品。
だれでも持てるわけではないハイテク機器であった。
「ニューオーロラ号」にも京都伝統の漆塗装が施され、医者のステータスの象徴にもなっていた。

医療用X線装置「ニューオーロラ号」
医療用X線装置「ニューオーロラ号」

1896年(明治29年)二代島津源蔵がレントゲン撮影に成功し、その翌年に教育用として製造されたX線装置は10年以上の研究を重ねた末、1909年(明治42年)にわが国初の国産医療用X線装置として発売された。

初期のX線撮影実験
初期のX線撮影実験

かなり大掛かりな装置で、病院によっては入り口以上に大きくて中に入らないことも多々あったという。
二代源蔵はつねづね「科学を実用に」と語っている。
理論だけで終わらず、実際に役立つ製品に生かしてこそ科学の知識が意義を持つ。

教育用X線装置(明治30年製造)
教育用X線装置(明治30年製造)

そこには、製品が使用される現場を顧みない、安易なモノづくりを諌める意味もあったのだろう。
島津のX線装置は、日々改良が加えられ、より高度に、より使いやすくなり、大正に入るとよりコンパクトに、より丈夫にというモノづくりの方向にシフトしていった。

その結果生まれた、日本で初めてといってもいい軽量コンパクトな「ニューオーロラ号」はシンプルで使いやすい操作性もあいまって、大病院をはじめ町の医院にも幅広く採用され、全国を風靡したのだった。

レントゲン工場の作業風景
レントゲン工場の作業風景