The Moment

二人の島津源蔵による軌跡

vol.3

「MADE IN JAPANの夢」

自動車のバッテリーと聞けば、「GS」の2文字を思い浮かべる人も多いはずだ。
現在も「ジーエス・ユアサバッテリー」としてその名を残す「GS」とは、じつは、島津源蔵のイニシャルである。
商標登録されてから、2008年で100年を迎えた。

1904年頃のGS蓄電池
1904年頃のGS蓄電池

島津梅治郎、後の二代島津源蔵。
「天才発明家」「日本のエジソン」など、科学技術者として今も尊敬を集める彼こそ、京都近代工業の祖といっても過言ではない。
天才発明家を生んだのは、父・初代源蔵のなにげない一言だった。 幼い頃、島津製作所に次々と修理に運び込まれる機械はすべて外国製だった。

少年梅治郎は「なんで日本人はこのような機械を作れんのやろ」と父に聞いた。
「作れんのやない。日本には機械を勉強した人がおらんのや」。
その答えに、少年は奮い立った。
家業の手伝いで学校には2年間しか通っていない。

二代 島津源蔵
二代 島津源蔵

その代わり、父に借りてきてもらったフランスの物理書を独学で学んだ。
もちろんフランス語は読めない。 挿絵と図解だけを参考に、ネジ、歯車、軸、ハンドルなど教科書通りの機械を作っては父を喜ばせ、周囲の皆を驚かせた。
源蔵は生涯178件の特許を取得しているが、その代表ともいえるのが蓄電池製造のための技術、「易反応性鉛粉製造法」である。

フランスの物理書(英訳版)
フランスの物理書(英訳版)

明治の中ごろから、日本の産業は拡大期に入る。機械も手動から電動の時代に移っていった。
発電設備はまだ充分ではなく、無線通信、鉄道、劇場、映画館など蓄電池の需要がすごい勢いで伸びていた。
源蔵も外国製を参考に蓄電池の製造を開始し、1897年(明治30年)、10アンペアの容量を持つペースト式鉛蓄電池を完成させた。これが日本における蓄電池の工業的生産の始まりとなる。

1908年(明治41年)にはGSブランドを立ち上げ、1917年(大正6年)日本電池(株)を設立した。
蓄電池の最も重要な材料は鉛粉であったが、当時の日本に鉛を粉砕して粉にする技術はなかった。
良質の鉛粉が作れるかどうかに新会社の命運が握られていたといってもいい。当時の先端企業、ドイツのチュードル社から技術を買うか、それとも新たな技術を自社開発するか。
重役会を押し切り後者を選んだ源蔵は、京都国立陶磁器研究所の植田博士を訪ねた。実験のための陶土粉砕機を借りるためだ。
数十回頼み込み、ようやく借りることができたものの、できた粉は粗くて使い物にならなかった。
日本電池の社員が植田博士から「君の社長は化学を知らない」といわれているのも耳に入ってきた。

試行錯誤を続けていたある日のこと、源蔵は機械の投入孔についた粉を偶然見つけた。その鉛粉は塵のように細かく上質だった。
「これは、空気の作用だ」。
粉砕機に送風しながら亜酸化鉛を作る方法を発見した瞬間だった。
この「易反応性鉛粉製造法」は、従来の製造法よりはるかに上質で、大量の鉛粉を作り出すことができた。
その製法がいかに画期的だったかは、「常識では考えられない」、という理由で特許が下りるまで3年もかかった事実が物語っている。

しかし、源蔵はつねに「常識」と戦っていたのではないだろうか。
「技術は外国から買う」という常識。
「外国製が一流品」という常識。
源蔵の頭にはいつも、少年の頃の父の一言があったに違いない。
Made in Japanが高品質の証となった今の時代を、源蔵はどんな目で見ているだろうか。

亜酸化鉛製造機
亜酸化鉛製造機