History

島津製作所の歴史

1917(大正6)年~1944(昭和19)年

近代企業へ脱皮

「科学は人の役に立ってこそ価値がある」と考える島津は、1918年小型・高機能、操作が簡便な汎用型医療用X線装置を完成させます。それを操作するX線技師の養成にも尽力し、医療用X線装置の本格的な普及を後押ししました。近代工業化を進めた島津は、歯車機器や工業計器、分光機器、非破壊検査機器など新製品も次々と開発しています。

ダイアナ号による診察風景

CHRONOLOGY

年表

1917年
株式会社に改組 社長に二代島津源蔵が就任
1918年
  • 医療用X線装置「ダイアナ号」「ニューオーロラ号」発売
  • てんびんの製造を開始
1920年
  • 歯車減速機「ギャーカップリング」の製造を開始
  • 易反応性鉛粉製造法を特許出願
1921年
第1回レントゲン講習会を開催
1923年
ドイツ ベルリンに出張所を開設
1925年
マネキンの製造を開始
1929年
工業計器(CO2レコーダ)の製造を開始
1933年
X線透視検査装置(ウエルテス)の製造を開始
1936年
航空機器(機体部品)の製造を開始
1940年
プロセス制御計器の製造を開始

EPISODE

エピソード

レントゲン技術講習所での実習風景

専門技術者の教育機関を設立

X線に関する正しい知識の普及と装置の専門技術者の育成はメーカーの責務として、島津はレントゲン講習会を20年間続け、1927年には島津レントゲン技術講習所を開設しました。X線技師を養成する教育機関で、現在は京都医療科学大学へと発展し、放射線医学界に多くの人材を送り出しています。

ベルリン出張所(昭和6年)

欧州の先進技術を導入

島津は1923年、ドイツのベルリンに東アジア以外では初の海外出張所を設置しました。出張所はヨーロッパから最先端の精密器械と技術を輸入・導入する窓口として、1932年に閉鎖されるまで、日本の科学技術の水準を高め、新製品開発に寄与するために大きな役割を果たしました。

マネキン工場

マネキン産業の源流

島津が日本におけるマネキン産業の祖であることは、あまり知られていません。人体模型製作で培った技術をベースに、1925年にマネキンの試作を開始。1930年には日本独自のファイバー素材のマネキンの開発に成功し、最盛期には国内市場の約85%を占有する一大メーカーとなりました。しかし、戦火拡大で1943年に生産停止に追い込まれます。戦後も再開されることはありませんでしたが、島津マネキンの技術は関係者によって他社へ受け継がれ、日本のマネキンづくりを支えてきました。

賜さんの栄に浴した本邦の十大発明家(前列左端 島津源蔵)

二代源蔵 日本十大発明家の栄誉に輝く

二代源蔵は1920年易反応性鉛粉製造法を発明し、蓄電池材料である鉛粉の性質・コストを大幅に革新しました。製造された鉛粉は防錆塗料としても有用で、2012年完成の東京スカイツリーにも使われています。この発明により、ビタミンB1を抽出した鈴木梅太郎博士、特殊合金鋼を発明した本多光太郎博士、真珠の人工養殖に成功した御木本幸吉氏と並んで、十大発明家の一人に選ばれたのでした。