島津製作所 SHIMADZU
田中耕一記念質量分析研究所 金子 直樹

血液バイオマーカー
探索への
飽くなき挑戦

田中耕一記念質量分析研究所 
金子 直樹

(2011年~ 田中最先端研究所・
田中耕一記念質量分析研究所在籍)

「血液一滴で病気の早期診断ができるようにもなるのも夢物語ではないと思っています」

2003年3月28日に田中耕一が記者会見で明かしたその未来のビジョンが、アルツハイマー病の早期発見をテーマに、「夢物語ではない」ところまで近づいている。

アルツハイマー病は2010年3月に開始した国のプロジェクト、最先端研究開発支援プログラムで初めて研究所の研究テーマとして掲げられた。アルツハイマー病では発症の20~30年前からアミロイドβというタンパク質が脳内に蓄積し始めると言われている。脳内から血液に漏れ出ているわずかなアミロイドβ関連ペプチドを質量分析で検出できれば、その兆候を早期に発見できるのではないかというのが狙いだ。

研究開発を中心となって推進したのが、田中耕一記念質量分析研究所・係長主査の金子直樹。大阪大学に設置された島津製作所の寄附講座での研究生活を経て、最先端研究開発支援プログラムが2年目に入った2011年、当初3年の任期で研究所のメンバーとなった。

金子は免疫沈降という抗原抗体反応を利用した分離・精製技術と質量分析を組み合わせた分析法、IP-MALDI-MSを開発し、2014年に質量分析で血液中のアミロイドβの測定を可能とする手法を世界に先駆けて発表。新発見となる血中APP669-711等を含むアミロイドβ関連ペプチド22種を血液から初めて検出した。さらに同年には国立長寿医療研究センターとの共同研究により、この手法で検出したAPP669-711とAβ1-42の比が脳内のアミロイドβの蓄積を高精度に判別できるバイオマーカーであることを報告。続けて共同研究チームはAβ1-42、Aβ1-40およびAPP669-711を組み合わせたコンポジットバイオマーカーを開発し、2018年には日本とオーストラリアの臨床検体を用いた研究成果がNature誌に掲載された。この技術は2020年に測定システムとして医療機器の承認を取得し、2021年には製品化も果たした。金子はこれら一連の活動を研究所の立場で牽引した立役者だ。

  • 研究チームのメンバーと(2020年11月)研究チームのメンバーと(2020年11月)

「やってみなければ
分からない」

金子が研究に着手した2011年当時、血液からのアミロイドβの検出は抗原抗体反応を利用したELISA法など別の手法では報告されていたものの、質量分析法ではまだ誰も検出できていなかった。また検出されたアミロイドβもアルツハイマー病との相関が見られず、血液中のアミロイドβの臨床的有用性は低いというのがアルツハイマー病研究者の中での共通認識だった。

期間限定のプロジェクトである上に、与えられたテーマはアルツハイマー病の血液バイオマーカーの発見という世界で成功事例がない難題。しかし金子はあくまでポジティブだった。

「確かに難しいテーマではありましたが、そもそも研究はどんなものでも、成功が分かっていて始めるわけではありません。やってみなければ分からないという点はそれまでの研究と同じでした。血液中のアミロイドβは診断には使えないという考えが当時は一般的でしたが、検出手法が異なればまた別の側面が出るのではと思っていましたし、もし検出がうまくいかなかったとしても、その過程で高感度化の手法など新技術が発見できれば、ほかの分子にも応用できるだろうと考えていました」

金子の困難に負けない前向きな姿勢と緻密な実験計画、それを実行するチームの努力によって、研究は前に進み続けた。

  • AXIMA PerformanceとAXIMA Performanceと

独自のプロトコルで
アミロイドβを検出

ある試料を質量分析装置で測定し結果を得るまでの手順の中には、前処理から装置のパラメーターの設定まで多数の選択肢があり、一回の測定について取りうる手法は膨大な数に上る。夾雑物質の多い生体試料を質量分析で測定する際には、測定前に余分なものを取り除くことが一般的で、そのための前処理法の一つとして免疫沈降による精製がある。血液からのアミロイドβ検出の難しさは、血液は他の生体試料よりさらに多くの夾雑物質を含む一方、アミロイドβはごく微量にしか含まれない点にある。夾雑物質を最大限に除去しつつ、検出したいアミロイドβのロスを最小限に抑えるためには、抗体や溶液の種類や分量、洗浄の順番など、数多くの組み合わせの中から最適な条件を見つけ出すことが必要だった。

金子は膨大な可能性の中から、精製を2回連続で行うことでアミロイドβを高感度に検出する独自のプロトコルを編み出した。そこに生かされたのはそれまでの研究生活で得た知見だった。 

「血液のような生体試料は質量分析装置にとって測定が難しいのですが、大阪大学でのガンのバイオマーカー研究で生体試料の扱いに慣れていたことが大きいです。当時はELISA法を主に用いていて、どのような条件下で抗原抗体反応の活性が良いかといった特性を熟知していたので、それを免疫沈降にも応用できました。質量分析装置での測定もその時期にしっかり学んでいたので、免疫沈降と質量分析を組み合わせた際に高感度を維持できるサンプル調製や測定モードの選択などにも経験が生かせました」

そうして知識によって可能性を絞りつつも、それぞれの選択にメリットとデメリットがあり、どの組み合わせによって実際に何が起こるかは実験してみなければ分からない。経験を生かしつつ、さらに手を動かし数えきれないほどの実験で検証を繰り返すことにより、それまで誰も見たことのなかったアミロイドβを示すピークがマススペクトル上に現れたのだ。

金子が研究者として何よりも喜びを感じるのは、そのように今までにはなかったデータが自分の計画した実験で思い描いた通りに得られた瞬間だという。

「アミロイドβがはっきりと見えた時、それから国立長寿医療研究センターとの共同研究で、アミロイドPETで測定した脳内の蓄積状況と血液から検出したアミロイドβの傾向が一致した時の興奮はよく覚えています。成功するか誰も分からない領域であるバイオマーカー研究でその難しさを経験していた分、自分の考えと結果が結びついたときは、とてもうれしかったです」と島津製作所での研究生活を振り返る。

  • 2019年2月に放映されたNHKスペシャル「平成史スクープドキュメント 第5回 “ノーベル賞会社員” ~科学技術立国の苦闘~」の取材でインタビューを受ける金子2019年2月に放映されたNHKスペシャル「平成史スクープドキュメント 第5回 “ノーベル賞会社員” ~科学技術立国の苦闘~」の取材でインタビューを受ける金子

ひとつの発見から広がる
生命科学の知見

2023年1月、金子のもとに新たな朗報が舞い込んだ。金子と研究チームのメンバーが共著者として名を連ねる論文がMolecular Psychiatry誌にアクセプトされたとの連絡だった。2014年に金子が血中で発見したペプチドAPP669-711は、それまでにも知られたAβ1-42やAβ1-40とは異なり、なぜ体の中に存在するのかメカニズムが不明だった。そこで、国立長寿医療研究センターとバイオマーカーとしての有用性の検証を進めるのと並行し、2015年1月から東京大学との間で産生機構の解明に向けた共同研究にも着手していた。さまざまな種類の阻害剤を試し岡山大学を交えたマウス実験などを重ねることによって、ADAMTS4と呼ばれる酵素が産生に関係していることがついに明らかになったのだ。

「分子の生物学的背景を説明できることは科学的に非常に意義が大きく、今回の共同研究によってAPP669-711のバイオマーカーとしての信頼性や根拠がさらに強固になったと言えます」(金子)

研究所で生まれた一つの発見がまた別の研究テーマを生み、それぞれを起点に社外の研究機関とつながることによって生命科学の新たな知見を切り開いていく。研究所創設当初に掲げた質量分析を中心とする懸け橋としての活動が、血液一滴による病気の早期発見という田中が見た未来を、夢物語から現実の世界に手繰り寄せる力となった。

  • 論文共著者のメンバーで論文共著者のメンバーで

新たな
バイオマーカー研究で
世界のトップを

2014年にアルツハイマー病の血液バイオマーカーを世界で初めて発表してから9年が経つ。金子らがその有用性を示したことにより、世界の研究スピードは一気に加速した。今では血液を用いたバイオマーカーの測定は特別な技術ではなくなっている。

金子の次の目標は、アミロイドβに続く新たなバイオマーカーの探索で成果を上げることだ。

「私たちは認知症の中でもアルツハイマー病を対象としてアミロイドβの血液バイオマーカーの発見に成功しましたが、アルツハイマー病の病変としてはタウの異常凝集体も知られています。またアルツハイマー病以外の認知症や神経変性疾患など、取り組むべき研究課題はまだまだたくさんあります。実験でどんな結果が出るか、研究が成功するかは、とにかくやってみなければ分かりません。社外の研究者の方々から私たちに寄せられる期待も感じています。研究成果を水平展開し、アミロイドβ以外の血液バイオマーカー探索でも世界のトップを走れるよう、研究に注力したいと思っています」

(文中敬称略、所属・役職は記事掲載当時)文:田中耕一記念質量分析研究所・前地 聡子 / 写真:田中耕一記念質量分析研究所・北村 洸
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