島津製作所 SHIMADZU
島津総合サービス 望月 崇孝

質量分析で
世界の懸け橋に

島津総合サービス 望月 崇孝

(2003~2008年 田中耕一記念質量分析研究所在籍)

2002年10月、職場で机を並べて働く一人の社員がノーベル賞を受賞するという前代未聞の出来事に社内が沸き立つ中、当時の社長、矢嶋英敏は発表から約1週間後の10月15日、質量分析の基礎研究の推進を目的とした研究所の設立を表明する。そして翌年1月1日には田中を所長とする田中耕一記念質量分析研究所が発足。その間、わずか2か月半。受賞の知らせを受けた瞬間から嵐のような日々を送る田中に代わり開所に向けて奔走したのが、初代副所長に就任する望月崇孝だ。当時は分析計測事業部・事業戦略室の部長に従事する傍ら、12月のノーベル賞授賞式に向け様々なサポートを行う特任チームの一員として、やはり慌ただしい毎日を過ごしていた。

「研究所設立も副所長就任も突然の話で大変驚きました。ですが、方向性ははっきりしていました。矢嶋社長からは受賞直後より、田中さんが今後も研究開発を続けられるようにバックアップすることが会社の責務であるという、明確な方針が社内に示されていたのです。矢嶋さんの考えや思いを基に、それを実現するための体制づくりにすぐに取り掛かりました」

  • IT部門は発表当夜に急遽、田中耕一の経歴や研究概要を紹介するページを島津HP内に開設。数日はWebサーバーが落ちてつながりにくい状態が続いたIT部門は発表当夜に急遽、田中耕一の経歴や研究概要を紹介するページを島津HP内に開設。数日はWebサーバーが落ちてつながりにくい状態が続いた

二つのミッションを両輪に
研究所が始動

望月は研究所の立地や設備などハード面の検討と並行し、ミッションや研究テーマ、人員といったソフト面の土台づくりを進めていく。研究所のミッションとして研究活動の推進と並んで掲げたのが、質量分析を中心とした科学技術の振興と普及だ。これは島津製作所の創業者で、理化学機器の製造を通して科学教育の振興や人材育成にも力を入れた初代島津源蔵から、脈々と社内で受け継がれている基本理念でもある。

質量分析研究所が目指した科学技術の振興と普及のための活動は、「リエゾン」(インターフェイス・橋渡し)がキーワードとなる。

「質量分析という技術を中心に、国内外の研究者、研究機関や大学、企業などをつなげるリエゾンとなることを目指しました。研究所を通じて新たなネットワークと人脈を構築し、そこで得られたことをまたフィードバックして各組織を有機的に結び付けていきたいと考えたのです」

世の中とつながりながら成果を出し、その成果がまた世の中にインパクトを与え、化学反応を起こして質量分析の新たな可能性を育んでいく。そんな循環が生まれる「共創」の場として機能することで、科学技術の発展と社会貢献を目指したのである。

ノーベル賞もまた同様に、横のつながりとチームワークの上に成り立ったものだと田中は繰り返し述べている。当時の研究チームは質量分析装置のイオン化、分離、検出技術の開発、測定による評価という4つのタスクを5名の技術者が分担しており、受賞対象となった「ソフトレーザー脱離イオン化法」は最初のイオン化についての手法だ。しかし、たとえイオン化の手法が画期的でも、それだけでは分子量を測ることはできない。目に見えないイオンを見るための手法を同時開発したからこそ発見が生まれたのである。独創的な発見やブレイクスルーとチームワークは相反するものではなく、両立できるというのが田中の持論だ。

そんなチームワークを社内だけでなく社外にも広げるため、田中は研究所所長に就任後も学術講演や学会での発表など、研究者および技術者としてディスカッションする場を持ち続ける。

研究所を共創の場として機能させるために重視したのが、田中自身が技術者として研究開発を続けること、そして成果を出し続けることである。もう一つのミッション、研究活動の推進だ。

「ノーベル賞受賞という一つの成果に終わるのではなく、絶え間なく研究を続けて成果を積み重ねることこそが大事でした。それも島津製作所としてではなく、田中耕一記念質量分析研究所として結果を出し評価されることによって、田中さんの語る言葉が説得力を持つと考えました」

研究活動の推進と科学技術の振興および普及という二つのミッションを両輪に、ノーベル賞受賞を出発点とする田中耕一記念質量分析研究所のチャレンジが始まった。

  • 2003年に社長室広報グループ東京支社(当時)と共に	ニュートン編集部と共同で企画した別冊を手に2003年に社長室広報グループ東京支社(当時)と共に ニュートン編集部と共同で企画した別冊を手に

研究所と共に成長する
技術者たち

組織として成果を上げるために一番の鍵となるのが「人」だ。望月は研究所の初期メンバーについてこう語る。

「何もないところから田中さんがしたいことを実現する力を持った人を集める必要がありました。言われたことしかやらない人では駄目。田中さんと技術的な議論ができなければいけません。高いスキルを持ち、アウトプットを出せる人が条件でした。技術者以外のスタッフにも、語学や接遇などの高い能力を備えた人材を社内から集めました」

当初は新製品の飛行時間型質量分析装置AXIMA-QITの性能向上とアプリケーション開発といった既存装置をベースとした応用開発に取り組みながら、生体関連物質の解析手法の開発や診断への応用、新規質量分析計の要素技術開発など、質量分析の可能性を広げる新たな展開へと歩みを進めていく。
発足時には田中を含め3名だった研究員も、機械設計や電気回路、ソフトウェア開発などに高いスキルを持つ技術者たちが招集され、年々充実していく。そして2006年にはハードウェアを設計できる人材を育成するため、初めて新卒社員2名をメンバーに加えた。

そのうちの一人、細井孝輔(現・分析計測事業部)は、世界最小の卓上型質量分析計の実用化プロジェクトのリーダーとして、社内の各部門と連携しながら製品発売にこぎつける。もう一人の高橋秀典(現・分析計測事業部)は、原子-イオン反応に関する独創的な研究を大学や研究機関との共同研究で発展させる。研究所の役割として掲げていた懸け橋としての活動が、これまでにない技術や製品を世の中に生み出し、彼ら自身も大きく成長させることとなる。

仕事を通して社会貢献を

望月は2008年に異動で質量分析研究所を離れるまでの6年間についてこう振り返る。

「質量分析研究所は、基礎研究を行う一般的な企業研究所としての位置づけと、田中さんのノーベル賞受賞者としての公務をサポートするという独自の役割があり、その両立には難しい課題も多くありました。分析計測技術はそれまでは表舞台に立つことのない技術でしたが、ノーベル賞を契機にその重要性が再認識され、国として支援できるよう政策にも影響を与えていきます。苦労はありつつも、世の中が変わっていく過程に携われたのは非常に貴重な経験でした」

望月は定年退職後、島津製作所の子会社の島津総合サービスで島津グループの社員教育や技術セミナーの運営など、後進育成にあたっている。島津製作所の145年を越える歴史の中で、社会的にも会社の発展にも大きな影響を与えたイノベーションがどのようにして生まれたか、具体的事例を掘り下げる社内向けの教材がこのほど完成したという。ノーベル賞受賞研究となったソフトレーザー脱離イオン化法の開発ももちろんその一つだ。望月は語る。

「高い集中力と洞察力、観察眼を持ち、これと決めたことをやり遂げる田中さんと研究開発者たちの努力が重要な役割を果たしたのはもちろんのこと、アドバイスをくれた人や研究成果を認め世界に広げてくれた人、そしてその発見、発明と技術をより発展させてくれた人々によって、イノベーションが社会に役立つ形になっていったのです」

質量分析研究所と共に唯一無二の経験をした望月は、最後にこれからの若手研究者や社員に対するこんな思いを聞かせてくれた。

「世の中に対して自分がどんな貢献ができるか、会社で働きながら見つけてほしいと思っています。一人ではできなくても、会社を通してであればできることもたくさんあります。会社の中にいながら社会貢献が実現でき、社員ひとりひとりが、かけがえのない存在であることを実感できる。そんな環境を作るために少しでもお役に立てたらと思っています」

  • 島津総合サービスのセミナー配信室で島津総合サービスのセミナー配信室で
(文中敬称略、所属・役職は記事掲載当時)文:田中耕一記念質量分析研究所・前地 聡子 / 写真:田中耕一記念質量分析研究所・北村 洸
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