島津製作所 SHIMADZU
分析計測事業部 西風 隆司

スペシャリストの技を
スタンダードに

分析計測事業部 西風 隆司

(2011~2020年 田中最先端研究所・
田中耕一記念質量分析研究所在籍)

2003年に発足した田中耕一記念質量分析研究所は2010年3月に大きな転機を迎える。内閣府の最先端研究開発支援プログラムに採択され、2014年3月までの期間限定で田中最先端研究所を設立し、企業活動から独立した国のプロジェクトとして研究を推進する機会を得たのだ。この期間には多彩なバックグラウンドを持つ複数のキャリア人材がメンバーに加わり、研究所の成長に大きく貢献した。

そのうちの一人、西風隆司は横浜市立大学大学院において質量分析学の重鎮、髙山光男・元教授のもとで学んだ質量分析のスペシャリストだ。2008年に博士号を取得後、公益財団法人での研究生活を経て2011年に田中最先端研の一員となる。糖ペプチドや糖鎖の構造解析法を専門とする西風は同プログラム内だけでも6件の原著論文を筆頭筆者として国際誌に発表。さらに、糖鎖に付加したシアル酸の脱離を抑制すると共に「結合異性体」の識別を可能にする画期的な分析手法、シアル酸結合様式特異的修飾法(SALSA法)を開発し、これらの業績によって2017年に日本質量分析学会の奨励賞を受賞した。

  • 日本質量分析学会の奨励賞授賞式で(2017年)。当時の学会長で恩師でもある髙山光男先生からの授与となった日本質量分析学会の奨励賞授賞式で(2017年)。当時の学会長で恩師でもある髙山光男先生からの授与となった

マススペクトルから
見えるもの

西風が学生時代から一貫して大事にしていることは「マススペクトルをよく見ること」だ。恩師・髙山先生の教えであり、20年経った今も質量分析の極意だと語る。「質量分析の専門家であれば、マススペクトルからフラグメンテーションの様子を推測したり、時には化学式や構造まで推定したりすることもできます。でも専門家の目に映るものを誰もが生かせる形で共有することが重要なんです」と西風は話す。

田中耕一の開発したソフトレーザー脱離イオン化法もマススペクトルの観察がきっかけとなって生まれた技術だ。田中はコバルトの金属超微粒子とグリセリンを試料に混合したものにレーザーを照射して観察を続ける中で、グリセリンが乾く前のマススペクトルにイオン化の成功を示すピークを見出した。しかしこのピークは研究チームの他のメンバーにはノイズに見えたという。試料作製の最適化や積算回路の製作、検出器の感度向上など各要素技術の改良をチームで進めたことによってその現象が新技術として確立され、ライフサイエンスの研究を支える今日の普及につながった。

西風の質量分析研究所での研究活動もまた、糖鎖分析というフィールドにおいてスペシャリストが感覚を研ぎ澄ませ、精度を最大限に高めてたどり着いた知見を、多くの人が活用できる形に昇華させる道のりだったと言える。

  • 米国質量分析学会(ASMS)でガラス容器から溶出した極微量のボロンに着目した研究について発表(2013年)。マススペクトルをよく見ることでたどり着いた研究成果の一つ米国質量分析学会(ASMS)でガラス容器から溶出した極微量のボロンに着目した研究について発表(2013年)。マススペクトルをよく見ることでたどり着いた研究成果の一つ
  • MALDI-8020とMALDI-8020と

シアル酸結合異性体の
識別に挑む

糖鎖はタンパク質や脂質に結合するとその生体内での機能に影響を持つことが知られており、どのような糖鎖がどこに付加しているか調べることが疾患の解明や診断法の開発において重要とされる。しかし糖鎖は枝分かれした複雑な構造を持ち、質量分析の対象物の中でも特に分析が難しい。さらに糖鎖の解析を難しくしているのがシアル酸の存在だ。

酸性糖であるシアル酸は一般的に質量分析の感度を低下させると共に、分解して脱離が起こりやすい。そこでまず中性化して脱離を抑制することが必要となる。さらにシアル酸には質量は同じだが糖の付き方によって形が異なるα2,3-結合シアル酸やα2,6-結合シアル酸などの結合異性体が存在する。これらはそれぞれ、がんの発生やウイルスの感染などと関係することが明らかになっているが、質量がまったく同じであることから、脱離を抑制できたとしても質量分析計で区別することができない。

開所当初から糖鎖分析を重点研究テーマとしていた質量分析研究所では、糖鎖に試薬を反応させ、誘導体化することによってシアル酸を保護する手法の研究を進めていた。2005年には関谷禎規(現・アプリG長)が誘導体化の一つ、アミド化によって脱離を抑制する手法を発表し、高い注目を集める。しかし誘導体化しているはずがうまく分析できない事例があった。そこに絡んでいたのが結合異性体の問題だった。関谷の開発した手法はα2,3-結合シアル酸には反応性が低く、誘導体化が不十分だったことが後に分かる。

2009年にはイギリスの研究者によって、結合異性体にそれぞれ異なる化学修飾を施し、α2,6-結合シアル酸からはエステル、α2,3-結合シアル酸からはラクトンを形成させることで結合異性体に質量差を生じさせる手法が報告される。それを皮切りに結合異性体を区別する手法の研究が進むが、反応条件が煩雑であるなど、糖鎖分析のスタンダードとなる決め手には欠くものだった。より簡便で再現性に優れた手法も報告されるものの、ラクトンの構造が不安定なままのため、加水分解によって容易に元のシアル酸に戻ってしまうという課題が残されていた。

西風の開発したSALSA法が画期的である理由は、先行研究が解決しきれなかったこれらの問題を、それまでにない洗練された手法でことごとく克服した点にある。試薬や反応条件、測定条件などの組み合わせを網羅的に検証することによってその手法は確立された。

西風の手法は、結合異性体の確実な識別を行うために二段階の反応を起こすことが最大の特徴だ。第一反応では、特定の試薬を用いてα2,6-結合シアル酸をアミド化、α2,3-結合シアル酸をラクトン化する。この時点で両者の間に質量差が生まれ、「キレのいい識別」(西風)が可能になる。しかしこれだけではラクトンは不安定なままだ。そこで第二反応でラクトンをメチルアミド化することで完全に安定化させる。この二段反応により、本来は質量差のないα2,3-結合シアル酸とα2,6-結合シアル酸の間に28Da(ダルトン)という差が生まれ、質量分析計で識別することが可能になる。

西風はこの手法をsialic acid linkage-specific alkylamidation (SALSA)と名付け、2015年に米国質量分析学会(ASMS)で発表する。SALSA以外にもシアル酸の結合様式に特異的な修飾法は存在する中、このような二段反応によるラクトンの安定化は西風の研究が世界初だった。

SALSA法の改良と製品化

しかしSALSAにも実用化を考えるとまだ課題が残されていた。第一反応と第二反応では異なる試薬を用いており、二段階目の反応にさらに約1時間を要していたのだ。この課題は北海道大学・古川潤一特任准教授(現・名古屋大学特任教授)と花松久寿特任助教との共同研究で解決する。

「第二反応にアミノリシスと呼ばれる反応機構を用いることで一気に解決しました。この反応は極めて迅速で、ラクトンの安定化が数秒で完了します。使う試薬の数も削減でき、二段階反応でありながら一段階反応に近い操作性が実現しました。実用化に適したシンプルで合理的な手法が完成したのです」

SALSA法の改良に成功した西風は、2020年に分析計測事業部に異動した後、2021年に試薬と手順をパッケージ化した試薬キットを製品化する。

「製品化は(副所長の)岩本さんの鶴の一声で決まりました。でも最初は自分には製品化はピンとこなかったんです」と西風は言う。

「SALSA法は論文で説明しており、サポートのための試薬キットはニーズがないのでは」と感じたのがその理由だ。しかしSALSAは糖鎖分析のスペシャリストの西風がこだわり抜いて最適化した手法。試薬の濃度調整ひとつにしてもノウハウが存在し、論文だけで完全に再現するのは容易なことではない。試薬キットは各種試薬が既に最適な条件で混合されており、分析者はマニュアルに沿って処理を行うことで簡便にSALSA法を実施できる。その簡便さもまた、一定期間保管しても反応性が低下しない試薬の混合条件などを西風が見極めたことによって実現したものだ。

西風は「試薬キットが社外との共同プロジェクトを支えている場面も多く、製品という形で存在する重要性を感じています」と話す。

「これまで、東京都健康長寿医療センター研究所や大阪大学、東京大学、新潟大学、中部大学など、健康や疾病に関する最先端の研究を行う先生方から貴重なサンプルをお借りしたり、SALSA法を応用していただいたりすることによって、実際に糖鎖に関する有用な情報が得られるという手ごたえを少しずつ得てきました。SALSA法が生命活動に関する新たな知見の獲得に貢献できればと思っています」

  • 試薬キットの開発メンバーと(2020年11月)試薬キットの開発メンバーと(2020年11月)
  • MALDI-7090とMALDI-7090と

新しい技術で社会貢献を

西風は自身の研究生活を振り返り、「大学から公益財団法人、田中最先端研究所、田中耕一記念質量分析研究所、それから分析計測事業部と、アカデミアの世界から企業の開発現場に少しずつ近づく中で、基礎研究から実用化に向けた応用研究へと視界が広がっていった」と言う。

西風はSALSA法の開発と応用を解説した評論の最後にこう記している。

「新しい技術を誰でも使える一般的な手法に昇華させ、より多くのお客様がこの技術を『普通に』使って新たな発見を次々と生み出し、医療・創薬の発展の一助になるのが社会貢献であると考える」

目に見えないイオンを測定する質量分析計をもってしても、スペシャリストにしか可視化できないものがある。その技術を磨きつつ、価値を社会に届ける道を西風は歩んでいる。

(文中敬称略、所属・役職は記事掲載当時)文:田中耕一記念質量分析研究所・前地 聡子 / 写真:田中耕一記念質量分析研究所・北村 洸
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