島津製作所 SHIMADZU
分析計測事業部 寺本 華奈江

微生物と共に
新たな道をつくる

分析計測事業部 寺本 華奈江

(2017~2021年 田中耕一記念質量分析研究所在籍)

2017年にキャリア採用で島津製作所に入社した寺本華奈江は、MALDI-MS(マトリックス支援レーザー脱離イオン化-質量分析法)と遺伝子情報を組み合わせた分析手法「MALDI-MSプロテオタイピング」によって微生物分析の新たなステージを切り開いた、学究肌の実力者だ。微生物研究者という、装置ユーザーとしての鋭い視点が組織の中で発揮される場面は多く、田中耕一がイノベーションを生む環境として重要性を説く「異分野融合」を体現する一人とも言える。

MALDI-MSによる微生物同定法の一つに、微生物の試料を測定し、得られたマススペクトルをあらかじめ登録されたデータベースと照合して特定するフィンガープリント法がある。それに対しMALDI-MSプロテオタイピングは、リボソームタンパク質のピークによる観測質量をタンパク質遺伝子の塩基配列情報を翻訳したアミノ酸配列から求められる計算質量に帰属して解析を進める手法だ。

2019年に発表した、皮膚に存在するアクネ菌Cutibacterium acnesの分類では、種をさらに細かく分けたサブタイプの違いまで識別できることを示した。通常は遺伝子の配列解析で行われる識別を、MALDI-MSにより迅速かつ簡便に、理論的根拠に基づいた信頼性の高い結果として提示できる。
「アクネ菌の中にはニキビの原因になるものもあれば皮膚を守る働きを担っているものもあるように、同じ種でも働きが異なるタイプが存在する場合があります。そうした類縁性の高い菌を迅速に識別できるこの手法は、機能性食品や医薬品などの分野にも応用できるのではと考えています」

ノーベル賞受賞の
ニュースに涙

微生物研究者にとって質量分析装置は長い間、主要なツールではなく、MALDI-MSを用いた研究が米国で始まるのは2000年を過ぎた頃からだ。

農学部で微生物学を専攻していた寺本が、97年に雑誌「質量分析」(日本質量分析学会)で田中耕一が執筆した解説記事「良いスペクトルを得るために -MALDI-TOFMS-」に目を通した時も当時は別の装置を使用しており、知識として吸収するに留まっていた。

「MALDI-MSで微生物を測定したらどんなことが分かるだろうと考えたことはありましたが、発想だけで大学院を修了しました。なので就職後もMALDI-MSに対して憧れとやり残した思いがあったんです」

食品メーカーの研究員として働く社会人2年目だった2002年10月、ノーベル賞受賞のニュースで再び目にした田中の名は、そんな寺本に深い感動を与えたという。仕事に慣れ、面白さを感じると同時に、自分自身の分析知識の不足による行き詰まりにも気づき始めていたころ。彼女と同じ企業技術者でありながら科学技術の発展に貢献する大きな発見をし、その功績が世界に認められた田中の姿に「思わず涙した」ほどだった。

MALDI-MSによる
微生物分析に挑戦

それから数年後、もっと自分に自信をつけたいと考えた寺本は会社を退職し、2005年から産業技術総合研究所で分析技術と微生物について学び始める。正社員から非正規雇用に立場を変えての再挑戦だった。特定のプロジェクトのテクニカルスタッフからスタートし、自分のテーマで研究できる機会を得てからは大学時代にやり残したMALDI-MSによる微生物の分析手法の開発に着手する。

寺本が大学を卒業してからの数年間で微生物分析を取り巻く環境は大きく変わっていた。米国で起きたバイオテロなどを背景に国防の観点から研究に支援が進むと同時に、ゲノム解析技術が発展し、微生物での応用も進み始めていた。2003年には米国の研究者がリボソームタンパク質の観測質量とゲノム情報を関連づけた同定方法を提案。寺本はその実証を研究テーマとする。

「学生時代のまだ遺伝子情報が少ない状況で実験していても解析は進まなかったと思うので、良いタイミングで研究に着手できたと思っています。一旦就職したことで企業のスピード感やノウハウを学ぶことができましたし、そこで得た人間関係も大きな財産になりました」

寺本は種が同じでも菌株が異なる乳酸菌を使い、MALDIで分析しては登録されている遺伝子情報と照らし合わせ、前処理など条件を変えてはさらに測定し、どのような違いが表れるかを確認するといった基礎的な実験を何度も繰り返したという。そうした検証作業を丹念に続けるうちに、リボソームタンパク質のアミノ酸配列のわずかな変異が、マススペクトル上のピークの違いとして表れることが分かってきた。2000年代後半、寺本の研究が大きく前進する。

「MALDI-MSによる分類構造が、遺伝子をもとに分類した系統樹と一致したんです。説得力が一気に増し、この手法は信頼できると、研究への見方がガラッと変わるのを感じました」
寺本曰く、当時は質量分析関係者の関心は高分解能測定とタンデム質量分析法(MS/MS)に集まっており、彼女の取り組む微生物分析は「地味な研究テーマ」だったという。その中で周囲のサポートを糧に自らの努力が起こした追い風だった。MALDIのベテラン技術者で質量分析研究所での元同僚、川畑慎一郎(現・技術推進部)は「質量分析法による微生物分析をサーチからリサーチへと華々しく進化させた」とその功績を表現する。

  • 産総研時代にAXIMA-CFRと産総研時代にAXIMA-CFRと
  • AXIMA PerformanceとAXIMA Performanceと

質量分析研究所の
仲間と共に

所長の田中は、「新しい領域を切り開くために根気強く裏付けを重ねたことが学会での高い評価につながった」と話す。質量分析研究所の一員となってからも、新しい環境と仲間のもとで実績を重ね、2018年の日本質量分析学会BMS研究会のシンポジウムではSymposium Research Awardを受賞、日本農芸化学学会2019年度大会ではトピックス賞を受賞するなど、数々の賞を受賞している。

既知のマススペクトルデータに依存しないMALDI-MSプロテオタイピングは、類縁性の高い菌の判別だけでなく、新種の分析にも適用できるのが特徴だ。2020年に行った順天堂大学・切替照雄教授らとの共同研究では、質量分析研究所が開発したソフトウェアeMSTAT Solutionの多変量解析機能を活用することによりPseudomonas属細菌の新種提案に貢献し、その成果がInternational Journal of Systematic and Evolutionary Microbiology誌に掲載された。

川畑は「最高のデータを求めて測定条件の改良に挑み続けている時の寺本さんの集中力は、田中(耕一)さんと重なるところがある」と言う。

寺本の研究に対する熱意の源には、MALDI-MSによる微生物分析という学術分野の進歩に貢献したいという思いがある。自らの研究だけではなく、研究会やシンポジウムを主催するなど、社内外を問わず仲間を作り、業界を発展させると共に後進を育てる活動にも努力を惜しまない。

副所長の岩本慎一は、寺本を媒介として微生物分析の世界で島津のネットワークがさらに広がり、新しい知見をもたらしているとその存在を評価する。また研究面での能力だけでなく、「お客さまのハートをつかんで帰ってくる」という人間力が寺本の持ち味だ。

  • 社内の技術発表会で最高賞を受賞。資料準備中に発表メンバーで(2020年11月)社内の技術発表会で最高賞を受賞。資料準備中に発表メンバーで(2020年11月)
  • 質量分析研究所の元同僚たちと(2022年6月)質量分析研究所の元同僚たちと(2022年6月)

未来へ向けて

寺本は2021年に分析計測事業部へ異動し、社外との広いネットワークを生かした共創による分析システムの開発に取り組んでいる。「業界以外の人にも分析の楽しさを知ってもらいたい」と言う寺本は、オープンイノベーションをテーマに多くの講演依頼にも精力的に対応する日々を送る。

そんな寺本はこれからどのような未来を切り開こうとしているのだろうか。

「後進を育てることにはやはり力を入れたいですね。それから、一度仕事を退いた人が再び学び直してエキスパートとなれるような機会も作れたらいいなと思っています」

「あとは、海外を巻き込んだ研究をしたいです。昔アメリカの大学で研究をさせてもらっていた時期があり、その時に経験したスピード感に満ちた環境の中にまた身を置きたいという気持ちもあります」

「それから装置開発では、これ質量分析だったの?と思うぐらいの専用機をつくりたいです。体温計で測定するのと同じようなノリで、パッと測れて実は質量分析ができている、究極の専用機」

その専用機で測定するのは「もちろん微生物」と笑う。あふれるほどの夢を抱えながら、微生物分析の世界にまた新たな道筋をつくるべく、これからも研究活動に邁進する。

(文中敬称略、所属・役職は記事掲載当時)文:田中耕一記念質量分析研究所・前地 聡子 / 写真:田中耕一記念質量分析研究所・北村 洸
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