島津製作所 SHIMADZU
分析計測事業部 高橋 秀典

新規質量分析法
HAD/OADの開発

分析計測事業部 高橋 秀典

(2006~2021年 田中耕一記念質量分析研究所在籍)

高橋秀典が田中耕一記念質量分析研究所の一員となったのは、島津製作所に新卒入社した2006年。同志社大学大学院においてプラズマ物理に関する研究で博士号を取得した高橋は、「就職後も研究を続けたいとは思っていましたが、研究部門への配属は狭き門と半ばあきらめていました。とてもうれしかったのを覚えています」と話す。

高橋は質量分析の世界ではラジカル誘起解離法HAD(Hydrogen Attachment/Abstraction Dissociation)およびOAD(Oxygen Attachment Dissociation)という非常に独創的な構造解析の手法の開発者として知られる。

試料中の分子を質量分析で構造解析する一般的な手法として、イオン化した対象分子をアルゴンなどの不活性ガスと衝突させ、解離してできたイオンの断片を解析する衝突誘起解離法(CID)がある。CIDは汎用的に利用される手法だが、分子によっては解離されない部位が残ることがあるため、タンパク質の翻訳後修飾など分析対象によっては十分な構造情報を得ることができない。それに対し高橋が開発したのが、反応性の高い原子状水素(水素ラジカル)や原子状酸素(酸素ラジカル)をイオンに直接照射し、その反応によってイオンのフラグメンテーション(解離)を起こすという世界初の手法だ。水素ラジカルを利用するHADと酸素ラジカルを利用するOADはともに、生体試料の構造解析に有用な情報が豊富に得られる画期的な技術として高い注目を集めている。

  • MALDI-DIT-TOFMSの据え付けを行う高橋(2011年10月)MALDI-DIT-TOFMSの据え付けを行う高橋
    (2011年10月)

水素ラジカルを使った
構造解析へのチャレンジ

開発のきっかけは2013年秋ごろ。部内で新しいフラグメンテーション技術について議論していた時だ。ヒントとなったのは、インソース分解(ISD)という、イオン化と同時または直後に起きる開裂反応だ。マトリックス支援レーザー脱離イオン化法(MALDI)によるイオン化では、ある条件下でマトリックスから水素ラジカルが放出され、測定対象分子との相互作用によってフラグメンテーションが起こる。この手法はタンパク質・ペプチドのアミノ酸配列の解析などに用いられていた。

この水素ラジカルによる反応を促進し、さらには自在に制御できないだろうか? MALDI以外のイオン源や質量分離部と組み合わせれば、より複雑で多様な試料の解析ができるのではないか。そのアイデアの実証に取り組むことになり、大学院でプラズマ中の水素負イオンの密度計測を研究し、ラジカルについて知見のあった高橋が研究担当者に手を挙げた。

水素ラジカルを気相で生成し、イオン化した生体試料に照射して構造解析をする。これまでは不可能と思われてきたテーマだった。鍵となるのは、イオンのフラグメンテーションに十分な量の水素ラジカルをいかにして生成させ、かつ効率よくイオンと反応させるかだ。チームで先行研究を調査した結果、高橋は水素のフィラメント加熱による生成方法を選択する。

産学連携で
ラジカル生成源を開発

ラジカル生成源の開発に向け、高橋は学生時代に師事した同志社大学理工学部・和田元(わだ・もとい)教授のプラズマ物理研究室と共同研究を開始する。可能な限り高温で水素ラジカルを生成し、高い流束密度でイオンに近接照射できることが条件だ。小型で加熱効率が良く、かつ質量分析装置に搭載した際の負荷を低減する省電力設計など様々な工夫を行い、高橋らは高流量の水素ラジカル生成源の開発に成功した。生成した水素ラジカルをペプチドのイオンに照射すると、水素ラジカルに対する反応性の高い結合部位が特異的に切断されることを世界で初めて実証し、このラジカル誘起解離法をHADと名付けた。

2015年、高橋は米国質量分析学会(ASMS)でHADを初めて公開する。そこでの反応は想像以上のものだった。発表は瞬く間に話題となり、著名研究者が次々と彼のもとを訪れ、「Congratulations!」と声を掛けたのだ。

高橋は翌16年に論文を発表し、次のステージへ研究を加速させる。熱解離による原子源は水素ラジカルしか発生できないこと、また耐久性に難があることが課題だった。再び共同研究を開始した高橋と同志社大学は、新たにマイクロ波プラズマを採用したラジカル源の開発に成功する。これにより水蒸気を原料ガスとしたO/OHラジカルを用いた構造解析が可能となり、高橋はその手法をOADと名付けた。

  • 米国質量分析学会(ASMS)で口頭発表(2016年6月) 一般口頭発表は採択率が低く、質量分析研究所として初の発表だった米国質量分析学会(ASMS)で口頭発表(2016年6月)
    一般口頭発表は採択率が低く、質量分析研究所として初の発表だった

社外研究者との連携で
大きく飛躍

2015年の学会発表について高橋は、「ASMSは初参加だったので、皆さんの反応が特別なものだとは分かりませんでした。その後の発表では残念ながらそこまでの反響はなく、ようやくあれはすごかったのだなと気づきました」と笑う。HADからOADへと順調に結果を出し続けたかのように見える高橋だが、その言葉通り、スランプが続いた時期がある。

新しい技術を事業化するためには、基礎研究で成果の出た後、市場ニーズを明らかにし、ターゲットを絞って製品という形に向けて技術を収束させていく過程が必要となる。この道のりは容易ではなく、研究と開発の間に流れる「魔の川」などと呼ばれる。産学連携で新しい技術シーズの創出に成功した高橋にとっても、この魔の川は難所だった。

市場ニーズにマッチする応用方法、すなわちアプリケーションは何か。どのような分析結果を示せばHADやOADの持つ大きな可能性がより伝わるだろうか。試行錯誤を続けていたある日、同僚の寺本華奈江(現・分析計測事業部)は測定データの中からHADによる脂質の分析結果を見つけて目を見張った。そこには生体内での活性に大きな影響を与える二重結合(C=C)部位も含めた詳細な構造情報が示されていた。

「これはすごいと直感的に思わせるほどの魅力的なデータでした。このデータこそアピールすべきだと伝えました」

HADの可能性に注目した寺本は、東京大学・尾仲宏康特任教授らとの共同研究を高橋に提案する。従来の分析法では構造の決定が困難だった天然物骨格の新たなグループPK/RiPPハイブリッドリポペプチドの構造決定にHADとOADが大きく貢献し、その成果はNature Chemistry誌に掲載された。
また高橋はHADによる解離の理論的な裏付けを求めて産業技術総合研究所の浅川大樹・上級主任研究員に共同研究を提案。測定データと量子化学に基づくシミュレーションを組み合わせ、HADによる分子の解離過程にアプローチした研究は米国化学会誌(J. Am. Chem. Soc.)をはじめとする著名な学術誌に多数掲載され、高い評価を受ける。

東北大学・前川正充准教授らとの共同研究では、ニーマンピック病Cタイプの脂質バイオマーカーLyso-SM-509の分子構造の決定にHADが活用され、ライフサイエンスの課題解決に有用な手法であることが示された。

さらに理化学研究所などとの共同研究により、データサイエンスとOADを融合させた新たな有機構造解析法を開発し、その成果がこのほど、Communications Chemistry誌に掲載された。

高橋のキャリアをバックグラウンドとして産学連携で生まれた新技術は、こうして未知のテーマに取り組む社外の研究者とつながることによって大きく飛躍する。これらの研究活動が認められ、高橋は2022年に日本質量分析学会より、質量分析学の進歩に寄与する優れた研究を行い、将来の発展を期待しうる者に対して授与される「奨励賞」を受賞した。

  • 日本質量分析学会 第70回質量分析総合討論会の授賞式で。偶然にも前川准教授(左)と同じ年の受賞となった日本質量分析学会 第70回質量分析総合討論会の授賞式で。偶然にも前川准教授(左)と同じ年の受賞となった

次の成果に向けて

高橋は技術の製品化に向け、2021年に分析計測事業部へ異動する。研究者として長いキャリアを持つ高橋だが、品質保証部や工場、調達部など様々な部門とのやりとりによって、見える世界がさらに広がったという。

「このようにしてモノが作られていたのかと会社の仕組みが初めて分かりました(笑)。毎日、新鮮な経験をしています」

まず取り組むのは、島津製作所の既存の四重極飛行時間型質量分析計へのOADの搭載だ。目に見えないイオンを測定する質量分析の世界で独自の研究に打ち込んできた高橋は、また一つ、目に見える成果を積み重ねようとしている。

(文中敬称略、所属・役職は記事掲載当時)文:田中耕一記念質量分析研究所・前地 聡子 / 写真:田中耕一記念質量分析研究所・北村 洸
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