IEEE Milestone認定 「レーザーイオン化質量分析計」の解説

1984年に当社の中央研究所(当時)において研究開発を開始し、1988年に発売したレーザーイオン化飛行時間型質量分析装置LAMS-50Kがこのたび、電気・電子分野の国際学会であるIEEE (The Institute of Electrical and Electronics Engineers) により「IEEE Milestone」に認定されました。IEEE Milestoneは誕生から25年以上を経過した重要な技術業績を称えるものです。LAMS-50Kはソフトレーザー脱離イオン化技術を応用した世界初の製品であり、分子生物学や医学などの研究分野への貢献が評価されました。
質量分析計「LAMS-50K」が「IEEE Milestone」に認定
当初からこの開発に深く携わった田中耕一が、LAMS-50Kの各要素技術等について解説します。

田中耕一 

IEEE Milestoneに認定されたLAMS-50K(1988年発売)には、2002年ノーベル化学賞を受賞したソフトレーザー脱離法Soft Laser Desorptionだけでなく、当時の最先端技術が幾つも組み合わされていました。それら技術や基本となる考え方に対し、その後も世界の研究者・技術者によって様々なアイデア・改良が重ねられ、現在の飛行時間型質量分析手法におけるケタ違いの性能向上につながっています。
今回の認定を機に、その意義を振り返るためにもLAMS-50K製品化当時の個々の技術に関する説明を行います。

受賞講演の論文 (Nobel Lecture)
https://www.nobelprize.org/uploads/2018/06/tanaka-lecture.pdf

LAMS-50K概略図(1988年作成の図に対し加筆改変)

LAMS-50K概略図(1988年作成の図に対し加筆改変)

 

 

1. ソフトレーザー脱離法SLDとは
2. イオン遅延引き出し法とは
3. 傾斜電場型リフレクトロンTOFMSとは
4. 後段加速検出器とは
5. Analog-to-Digital Converter(ADC)回路とは
6. Constant Fraction Discriminator(CFD)とは
7. Time-to-Digital Converter(TDC)回路とは
8. 実際に測定されたタンパク質データは
9. 島津グループが製品化してきたレーザーイオン化MSは

なお、2002年ノーベル化学賞を受賞した田中耕一は、東北大学アンテナ工学安達三郎研究室出身であり、八木・宇田アンテナ(1924年発明IEEE Milestone)・虫明アンテナ(1948年発明IEEE Milestone)の流れを汲んでいます。

1. ソフトレーザー脱離法SLDとは

質量分析Mass Spectrometry (MS)は、その文字通りに訳すと「元素や化合物分子の重さを量る分析手法」です。ただし、全体の重量を量る体重計などの方法と異なり、MSは顕微鏡でも見えないナノサイズの元素や化合物分子を個々に分けて重さを量る方法であり、そのために電場や磁場及び電磁波を用いて大きさごとに分けます。
元素や化合物分子が電荷を帯びていない中性のままでは電場や磁場に反応せず、結果として重さの違いを見分ける事ができないため、重さで分ける手段の手前に何らかの方法で電荷を帯びさせる手段を用います。その1つがソフトレーザー脱離法Soft Laser Desorption(SLD)です。
レーザー光を化合物に照射すると、その光を直接吸収できる化合物は内部エネルギーの上昇によって分解する可能性が高まり、逆に吸収できない場合は固体や液体のままとなり、個々の分子が自由に動ける状態(気体)にはできません。化合物を分解させず かつ 気相へ脱離させる方法が「ソフトレーザー脱離法」(2002年 ノーベル化学賞受賞)です。この場合、レーザー光を吸収かつ測定したい化合物をできる限り分解させずにイオン化するための媒質:マトリックスを混ぜることが必要条件になり、1980年代発明当初は、レーザー光を効率高く吸収する金属超微粉末Ultra Fine Metal Powder (UFMP)と、ソフトに気相に脱離させるためのグリセリン混在状態が用いられていました。近年では、「マトリックス支援レーザー脱離イオン化法」MALDIが主流となっています。
この方法が開発されたことにより、以前は不可能と考えられていたタンパク質のような巨大分子さえも分解させずにイオン化することが可能になりました。
金属超微粉末UFMPは当時日本でしか作れない極めて細かなナノサイズの粉末であったため、Japanese Powder(真空冶金株式会社製)と呼ばれていました。日本でいち早くSLD発明が行えた理由の1つと考えられます。

ソフトレーザー脱離法簡略説明図

ソフトレーザー脱離法簡略説明図

*MALDIとSLDの関係は
MALDIは ドイツのHillenkamp, Karas両博士によって1985年に発明されました。文字通り、添加した(有機)化合物の支援によってイオン化する手法です。発明当初は、ペプチド等の低・中分子のイオン化促進効果が確認されていました。これに対し SLDとは、文字通り「レーザー光を用い 温和に脱離(イオン化)する概念・方法の総称」である、と考えられます。すなわち、MALDI, SELDI, DIOS等を含んでいる、と解釈できます。

2002年ノーベル化学賞Nobel Foundationサイト参照

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2. イオン遅延引き出し法とは

飛行時間型質量分析法Time of Flight Mass Spectrometry (TOFMS)の原理を表す最も単純な式は、エネルギー保存則から導出できます。すなわち、「イオン生成時に持っていた電気的な位置エネルギーと加速完了後の運動エネルギーが等しい」を表す式です。この式を変形し、加速完了後の速度vを持ったイオンが空間Lを等速飛行する時間TOFが導出できます(加速途中の飛行時間は無視)。

レーザー照射後に発生したイオンは、大なり小なり初速度を持っています。すなわち、加速電圧V0以外のエネルギーをも含むイオンが発生し(V0→V0+ε)、結果としてm/zが同じ大きさのイオンでも検出器へ到達する時間に幅ができるため、下図右上のように鉛の同位体206,207,208を分離する分解能が出せない場合がありました。

それに対し、上図左下のようにイオン生成から少し経過した時間tDに引き出し電圧V0を印加すると、初速度を持って既に飛び始めていたイオンはV0より少ない位置エネルギーで加速、逆に初速度を持たなかったイオンはV0で加速、同じm/zのイオンが検出器に同時に到達可能なtDを見つけられると、質量分解能を高められる場合があります。この方法を一般に「遅延引き出し法」Time Delayed Ion Extractionと呼んでいます。

島津製作所中央研究所にて研究開発された本技術は1985年に特許として申請**されましたが、LAMS-50Kには採用されませんでした。ただしその後1990年代から特に欧米で更なる分解能・精度の向上が行える方法が様々に開発され、現在 M/⊿m:数千~数万の手法が主流となっています。

* 質量電荷比 質量1単位は炭素12の1/12、電荷の1単位は電子1個の荷電量
** 特開昭61-195554  filed in Japan Patent Office [S60035097] in 1985

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3. 傾斜電場型リフレクトロンTOFMSとは

「遅延引き出し法」では、イオン引き出しのタイミングを調整することにより、同一m/zイオンが検出器に到達する飛行時間を同一にする、結果として質量分解能を高められる方法です。それに対し、「振り子の等時性」を応用し、初期エネルギーεに分布がある場合でも同一m/zイオンの周期を同じくする方法があります。この場合、振幅の中心から離れた距離(エネルギー)に比例した引き戻す力が必要になります。飛行時間型に当てはめると、イオンが持っているエネルギーが異なっていても、m/zが同じであれば同じ周期TOFで検出器に到達する、になります。
近年、飛行時間型MSでは、上記の物理現象「振り子の等時性」を活用したリフレクトロンを用いる場合が多くなっています。初期エネルギーの分布は最大100eV程度であり、TOFでは加速電圧として20kV前後を印加するので、エネルギー収束が必要な範囲は、「イオンが折り返す近傍のみ」となり、「その近傍のみ精細に等時性を達成すれば良い」、すなわち、下記図のように2段折れ線構造のリフレクトロンが当初(20世紀)多く研究開発され、製品に採用されていました。

島津製作所中央研究所では、傾斜電場型リフレクトロンを開発し、LAMS-50Kに採用しました。リフレクトロンに入る前までに分解することでエネルギーを大幅に失った(Post Source Decay)イオンも「振り子の等時性」をある程度保てるメカニズムになっています。従って例えば通常の全長50cmの半分25cmに短縮した部位に全長分のリフレクトロン電圧VRを印加した場合でも、ある程度のエネルギー収束を行えます。

「8.実際に測定されたタンパク質データは」参照
米国特許 US4625112参照

LAMS-50K採用傾斜電場型リフレクトロン模式図及び印加電圧図

US Patent 4625112から抜粋

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4. 後段加速検出器とは

現在の多くの質量分析装置では、飛行時間型等で分離されたイオン(荷電粒子)を検出器に衝突、電子を発生させ、その電子をさらに検出器内部の表面に衝突させ、2倍4倍8倍…と数を増やし、最終的に電気回路が電流や電圧として検知可能とするための装置としてイオン検出器を用いています。
特に飛行時間型では、高質量(高m/z)イオンは速度が低下し(「2.遅延引き出し法とは」イオン速度v参照)、たとえ検出器表面にイオンが衝突しても 最初の1つ目の電子をたたき出すことが困難または不可能となるため、1980年当時の5kV加速程度ではタンパク質のようなm/z:1万以上のイオン検出は想定せず、不可能と考えられていました。
LAMS-50Kでは、イオンを真っすぐ飛行させるだけのLinear TOF型、リフレクトロン(「3.傾斜電場型リフレクトロンTOFMSとは」)によってイオンを跳ね返させるReflectron TOF型 いずれの検出器にも、イオン分離させた後にイオンを再加速post accelerationさせ、金属表面でイオン電子変換を行うConversion Dynodeを組み入れた後段加速手法を採用していました。さらに最終段の電子増幅器として浜松ホトニクス製のMicro Channel Plateを用いました。飛行時間型の検出器は、同一m/zイオンを同一時刻に到達・増幅させる必要性があり、平らで広い平面を持つMCP採用が必要条件の一つだった、といえます。

LAMS-50Kに用いたReflectron用後段加速検出器断面図(1988年作成の図に対し加筆改変)

LAMS-50Kに用いたReflectron用後段加速検出器断面図(1988年作成の図に対し加筆改変)

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5. Analog-to-Digital Converter(ADC)回路とは

飛行時間型質量分析の検出器から出力されるアナログ信号データは、横軸:時間軸が1nsec弱~数10nsec毎に縦軸:イオン強度が変化します。この信号をコンピュータが処理容易なデジタル信号に変換する回路をADC:Analog-to-Digital Converterとよびます。1980年代、ある程度以上の強度分解能(8bit:0~255)を持ち、かつ時間分解能が最高(10nsec)のADCソニー製CX-20116でした(下写真左上銀色基板)。
レーザー1shot毎の信号Sには大なり小なりばらつきと多くのノイズNがあり、特にタンパク質由来のスペクトルは微弱であり、1shotのみの測定では十分なS/Nと再現性のあるデータ測定は困難です。LAMS-50Kでは、TOFMSスペクトルの高速(1~10nsec毎)で変化する大量のデータを逐次積算するため、バッファを効果的に活用した24 bits, 8k words積算回路を設計・製作しました。
なお、写真左側の基板上に多数の白い同軸ケーブルが配線されていますが、これは個々の信号に時間のずれが無いように同期するための工夫です。また、右側の基板には数本 細い緑色配線(ジャンパー線)がありますが、これら基板はprototype装置用であり、製品版では解消されています。

ADC Circuit and 24 bits, 8k words Accumulation Circuit (Prototype)

飛行時間型のスペクトル中には強度の微弱・強大なピークが混在しており、当時の最良の強度分解能8 bitsでは定量性・ダイナミックレンジを確保できませんでした。
LAMS-50Kでは、最大8個のTime Windowを設定、個々に独立して最大8倍の増幅率の違いを設ける回路Gain ControlをADC手前に設置、下図の様に各々windowの飛行時間範囲で より適切なS/Nデータが得られるようにしていました。当時の最大測定点は8k words(8,192 points)であり、低m/zからタンパク質などを測定する高m/zまでの広い飛行時間の中で、必要な部位のみを適切なGainで測定するための工夫をする必要があった、といえます。

1個のTime Window測定例(上図)と8個の独立したGainとTime Window使用例(下図)
LAMS-50Kカタログより

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6. Constant Fraction Discriminator(CFD)とは

通常、飛行時間型に限らず質量分析におけるスペクトルでは、様々な強度のピークが検出されます。それぞれのピークに対し どの時点(横軸位置)で検出したことにするか?に対して、ピークの頂上や重心、とする場合が多くありますが、十分に離散的にイオンが到達する場合は、ピークの立ち上がり、とする方法があります。
ピークの立ち上がりがどの時点か?は、大きく分けて、ある固定の値を超えた時点Fixed Thresholdとする場合と、ピーク頂点に対し ある一定の割合Constant Fractionの時点とする場合があります。
固定の場合は、下図の最上段に表されるとおりピークの強弱によって検出時間が変動しますが、一定の割合の場合(最下図)は変化がありません。飛行時間型にて真にリアルタイムでピーク位置の時間を精度高く求める場合、Constant Fraction Discriminatorの採用が適している、といえます。ここでは、Zero Cross Timingをピーク検出時としています。
LAMS-50Kでは、後述の時間精度の高いTDC回路および前記ADC積算回路のStart信号の前段階に使われています。試料に照射するLaser光量を調節するFilterが挿入されているため、Photo Diode出力の波高値は変化しますが、CFD回路により波高値に影響されずにADC及びTDC回路にStart信号を入力できるようになっています。

Constant Fraction Discriminator 原理 説明図(1988年作成の図に対し加筆改変)

Constant Fraction Discriminator 原理 説明図(1988年作成の図に対し加筆改変)

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7. Time-to-Digital Converter(TDC)回路とは

ADCと異なりTDCは、イオンピーク1回に対し1カウントすなわちヒストグラムを作ることになるので、1スペクトルの強度情報は失われます。従って例えば同位体分布の確認や定量測定には不向きですが、ピーク発生頻度の高い時間域Time binのカウント数が高くなるので、ある回数以上の積算を行うことで大まかに存在量の大小を知ることができます。
LAMS-50Kでは、レーザー発光を起点としたStart信号だけでなく TOFからのイオン検出Stop信号前段階にもCFDがあるので、Start・Stop両方のピーク位置:立ち上がり時間をADCよりも時間精度高く計測可能となっており、下図の様に当時としては時間分解能の高いTOF-MSデータとなっています。
なお、TOFではレーザー1shotで多数のイオンピークが検出される場合が多く、LAMS-50Kでは1 startに対し最大256 個のstop信号を測定可能としていました。

下図は、実験装置で用いたTDC回路基板写真例です。当時最も高速の処理が行えた日立製作所製のECL(Emitter Coupled Logic)を用いました。

TDC Circuit (Prototype)

TDC Circuit (Prototype)

電子が回路基板および配線中を1 nsec伝達する距離は約30cmです。LAMS-50Kでは、8つのDelay Lineを用いて1nsec Time binを生成するため、約30cmずつ長さの異なる7本の同軸ケーブルを基板裏(写真の水色枠部位)に半田付けしていました。写真の上側に、その一部が見えています。

現在では、1nsecよりも時間分解能が高い(1GHz以上)ADCが市販されており、質量分析でCFD,TDCを用いる装置は少なくなっていますが、例えば医用画像診断装置Positron Emission Tomography (PET)では光速(30万km/s)で飛行するγ-rayの発生位置を正確に推定するため、すなわち位置分解能を高めるためのTOF-PET用検出器として多数用いられています。
さらに近年では、障害物との距離を測るためのTOF測定装置として一部LIDARDrone携帯電話にも採用されています。

TDCを用いたTOF-PET概略図

TDCを用いたTOF-PET概略図

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8. 実際に測定されたタンパク質データは

下図は、LAMS-50K製品を開発していた1988年当時、質量10万を超えるイオンの測定に成功した1例のPC画面ハードコピーです。このデータは、Nobel Lectureにも掲載されています。
1行目から、<Mode>はADC、R25(Reflectron 25cm)、20n(時間分解能20nsec)、<Acquired>測定日時は1988年2月23日9時17分。2行目は、測定質量範囲 m/z : 25,000~105,000。3行目は、<Acc. Time>積算回数は500回、8つのwindowの1つのみ <Gain>4(8倍)で測定。Sm. Point(データスムージング)は 単純平均Simpleで15(Points)。
8kwordしかないため、10nsecではなく20nsec分解能、かつ質量10万Da以上を測定するため、Lysozyme M.W.: 14.3kは測定範囲に含められず Cluster Ion 2M(28.6k Da)以下から7M以上を測定しています。

MS Datum of Lysozyme Cluster Ions

MS Datum of Lysozyme Cluster Ions

タンパク質のような巨大分子を壊さずにイオン化するSLD法は2002年ノーベル化学賞を受賞しましたが、巨大分子を含めたイオンが実際に生成され、そのイオンを分離・検出し最終的に電気信号として確認するためには、同時並行して様々な研究開発と実際の電気信号への変換器および電気回路の設計と製作が不可欠でした。
その装置には、真空冶金浜松ホトニクスソニー日立製作所を代表例とする様々な日本の最先端製品・部品が極めて重要な役割を果たしていた、と言えます。

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9. 島津グループが製品化してきたレーザーイオン化MSは

島津グループは1988年LAMS-50Kをレーザーイオン化MSとして新製品発表以来、35年以上に渡り 多種多様な製品を生み出してきています。

LAMS-50K(1988年発売)

LAMS-50K(1988年発売)

 

KOMPACT MALDI series (1992~1999)

KOMPACT MALDI series (1992~1999)

 

Axima series (1999~)

AXIMA series (1999~)

 

iMScope (2013~)

iMScope (2013~)

MALDI-7090 (2013~)

MALDI-7090 (2013~)

MALDI-8020/8030 (2020~)

MALDI-8020/8030 (2020~)

MALDImini-1 (2019~)

MALDImini-1 (2019~)

質量分析MSは、物理の基礎的な単位である「化合物の重さを量る」方法です。
20世紀初頭に基本原理が発明以来、世界の研究者・技術者が感度・分解能・精度などの基本性能を劇的に向上させたこともあり、現時点でも応用範囲は多岐にわたっており、これからも様々な分野に活用範囲が広がってゆくことが期待されています。

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