どんなものでもおつくりします。
製造仕候也
顧客や時代のニーズに
応え続ける
“ものづくりのDNA”の原点
当社最古の製品カタログといわれる「理化器械目録表」が発行されたのは、1882年のこと。創業わずか7年にして、カタログには島津製作所が提供できる理科の実験器具が110種ほど掲載されていた。
末尾に記されていたのが「御好次第何品ニテモ製造仕候也(ご要望に応じて、どんなものでもおつくりします)」の一文だ。「理化器械目録表」は価格を3段階から選べるようになっていた。これは創業者である初代島津源蔵が、当時の学校が抱えていた財政難を考慮し、材質などを変えてつくり分けることで、より多くの人たちに器具が届くようにしたものだった。高い技術力はもちろん、初代源蔵の「科学」への情熱、ものづくりへのひたむきな姿勢があってこそ実現したこと。この「顧客のニーズさえあれば、なんでもつくる」という徹底した顧客第一の起業精神、「科学」への情熱とものづくりへのひたむきな姿勢は、ものづくりのDNAとして創業以来150年、時を超え、国を越え、世界で働く島津グループの全従業員一人ひとりに受け継がれている。
礎を築いた二人の源蔵
初代 島津源蔵
先端科学の風を受け、
日本の科学立国を夢見た初代源蔵
仏具職人であった初代源蔵が店を開いた木屋町二条は、明治維新後には先端技術の集積地となった。西洋技術や先端科学の風に触れた源蔵は、1875年、のちの島津製作所となる教育用理化学器械の製造工場を創業。国産の製品が少ない中、輸入用の見本や図版を参考に開発・製造を行った。さらに研究会の発足や科学史の発刊を通じて、科学知識の普及や啓蒙にも情熱を注ぎ、日本各地に先端技術の種を蒔いたのである。
島津製作所を飛躍させ、
“日本のエジソン”と
称された二代源蔵
幼いころから理化学器械に強い関心をもっていた二代源蔵は、1894年、父の急逝に伴い島津製作所の所主となった。「科学の力を通じて社会に貢献する」という父の遺志を継ぎ、顧客や時代のニーズに応えていく中で技術を蓄積。医療用X線装置や蓄電池製造など多くの新技術の開発と発明に力を注いだ。生涯で178件の特許を取得した二代源蔵の止まらぬ探求心は、島津製作所を今日の産業用機器、精密計測機器の総合メーカーへと発展させ、次の世代へとバトンを繋いだのである。
二代目 島津源蔵
STORY
挑戦の物語
ストーリー1
たった一枚の絵画から
軽気球の有人飛揚に成功
初代源蔵が島津製作所を興してまもない1877年、京都府から気球製作の依頼が舞い込んだ。「科学の力」を市民にアピールすることで、理化学教育への関心を高めようという意図であった。源蔵は引き受けたものの、設計図や資料はなく、あるのは一枚の絵画のみ。製作期間は4か月もない中、寝る間も惜しんで研究に没頭し、ついには気球を完成させた。
飛揚当日、有料にもかかわらず5万人近い観客が押し寄せ、人々が固唾をのんで見守る中、人を乗せた気球は地上36mの高さまで揚がり、日本で民間初の有人軽気球は成功を収めたのだった。
ストーリー2
医療現場の安全をかなえた
世界初の遠隔操作式X線TV装置
発見が遅れるほど命の危機が高まる脳卒中やがんなどの生活習慣病。体内を診るためにはX線検査装置が欠かせないが、装置から出るX線は人体に大きな影響を及ぼすため、患者や検査従事者の安全確保は急務であった。
そんな願いに応えるべく、島津製作所は大阪成人病センター(現・大阪国際がんセンター)、松下電器産業(現・パナソニック)とともに世界初となる遠隔操作式X線TVシステムを開発。X線の透視像を電送し、モニタに映し出すことで遠隔での操作が可能となり、X線による被ばくリスクや業務負担の軽減を実現した。画期的なこの技術は国内に留まらず、世界に広く普及し、今日では医療装置のスタンダードとなっている。
ストーリー3
感染症に
“科学の力”で立ち向かう
2019年に始まり、今なお多くの感染者をだす新型コロナウイルス。世界中がパンデミックになり感染者数が激増、迅速な検査体制の拡充が求められる中で開発したのが「遺伝子解析装置 AutoAmp」だった。AutoAmpは、クリニックにも置ける小型サイズの全自動PCR検査装置。4つの検体を同時に測定できる簡便な操作性が特徴だ。ここに、独自の遺伝子増幅技術「Ampdirect®技術」を用いた「新型コロナウイルス検出試薬キット」を試薬としてセットすると、2時間を要したPCR検査の全工程を1時間に短縮することに成功したのだ。
ノロウイルス検出試薬試薬キットをベースに、いち早く開発した試薬への反響は凄まじく、新型コロナウイルスの検査業務の効率化、医療現場の人手不足の解消に寄与した。