2021.03.24

マネキンの歴史と島津製作所の関係とは
国産マネキンの源流は京都に

「島津マネキン」の生産風景

かつて島津製作所がマネキンを生産していたことはご存知でしょうか。全盛期の1937年には、国内生産の85%以上を「島津マネキン」が占めていました。

実は、日本におけるマネキンの歴史を紐解くと、当社に辿り着くのです。教育用理化学器械の製造から始まった当社がなぜマネキンを手掛けたのか。そのルーツは人体模型にあります。

毎年3月24日は「マネキン記念日」ということで、島津製作所とマネキンの意外な関係を紹介していきます。

 

動植物や鉱石、人体にも広がった島津源蔵の研究

島津製作所の創業は1875年です。初代島津源蔵による教育用理化学器械の製造から歴史がスタートしました。仏具職人だった源蔵は、科学に関する知識を吸収するうちに、動物や植物、鉱石、そして人体も研究の対象としていきました。

1886年に源蔵が創刊した「理化学的工芸雑誌」では、人体の構造や動植物の生態は座学だけで理解できるものではないと毎号のように訴えていました。

こうした源蔵の遺志を、息子である二代島津源蔵らが継ぎます。

標本部が新設、人体模型を生産

初代島津源蔵が亡くなった翌年の1895年に標本部が新設されました。最初は植物模型や鉱石標本の生産から始め、やがて人体模型を手がけるようになります。

従来の人体模型は漆を塗った石膏でできており重さに難がありましたが、島津製作所は紙に樹脂を塗った「島津ファイバー」を採用しました。軽くて発色が良く、水にも強いということで特許も取得しています。最終的には138のパーツに分解できる模型も発表されました。

島津製作所製の人体模型

島津製作所製の人体模型

人体模型から「島津マネキン」へ

標本部は理化学器械と並ぶ2大部門となりましたが、世界恐慌の影響でビジネスとして成立しなくなります。しかし、人体模型で培った技術をベースにして1925年にマネキンの生産を開始しました。

当時は洋服の需要が急増しており、展示宣伝用にマネキンの輸入が増加していたことが背景にあります。島津製作所は、海外から輸入されてきたマネキンの修復を請け負っていましたが、自社での生産に舵を切りました。

「島津マネキン」

全盛期には年間約5,000体ものマネキンを生産

1931年には、二代島津源蔵の次男・島津良蔵が制作に加わります。島津良蔵は東京美術学校(現・東京藝術大学)で学んでおり、芸術性を取り入れました。

人体模型で培ってきた独自のファイバー技術や解剖学的な精巧さも相まって「島津マネキン」は市場で評価されるようになり、1932年には本社工場内にマネキン量産工場を開設。2年後には工場を移転して本格的な生産に入りました。

最盛期には200人以上の工場従業員が年間約5,000体ものマネキンを生産して全国生産の85%以上を占め、独占的地位を築きました。

昭和12年頃の島津製作所マネキン工場風景

昭和12年頃のマネキン工場の風景

その後、マネキン事業は京都の各企業へ

マネキンの一大メーカーとなった島津製作所でしたが、その後は戦時色の深まりとともにマネキンの生産と販売が中止されました。

戦後に再開されることはなく、ゆかりがあった京都の各社に事業が引き継がれました。マネキンのメッカとも言える京都、その源流は島津製作所にあるのです。

 

人体模型やマネキンに関する歴史についてはこちら

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