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あしたのヒント 慶應義塾大学

会議室を出て、現場に行こう

若手が育ってこないー。多くの企業が抱える悩みを、
解決するカギは会議室ではなく、現場にある。
「現場」を軽視しがちな近年の風潮を問い直す。

まずはリーダーの意識を変えることから

指先を滑らせて1ミクロンの狂いを探り当てる、ものづくりの高度な技能。あるいは、暗黙知として現場が持っていた生産管理や工程設計のノウハウ。ものづくり企業の財産ともいえるこうした「技術・技能」が、急速に失われつつある。
いわゆる団塊の世代が定年を迎え、一斉に一線を退くことになったとき、技術・技能の伝承の遅れ、いわゆる2007年問題が表面化した。特に、高度な技術が求められる重電系の加工職場や人材が限られている中堅企業で、さまざまな技術やノウハウをもつ団塊世代がそれまでの蓄積を次世代に伝えずに職場を離れることになれば、技術の進化、状況の変化への対応力が失われてしまうだろうと警鐘が鳴らされた。
同様の危機はあらゆる業種に見られ、近年多発する品質不良や重大事故の遠因を、そこに見る向きも少なくない。企業はその対策として、研修の強化、マニュアルの整備、作業の標準化などを進めているが、「最初にやるべきことは、トップの意識改革」だと慶應義塾大学ビジネス・スクール(KBS)校長の河野宏和教授は断じる。
「多くの経営者が、円高にともなって海外へ生産拠点を移転したり、人件費負担を減らすために非正規雇用を増やすといった、目先の利益確保に追われ、技能伝承を後回しにした結果、現場の活気と魅力が失われたのです。そこでは後継人材が育つはずはありません。伝承以前の問題です」

現場に行くことで養われるリーダーシップ

河野教授は、生産工学の第一人者。数多くの生産現場を訪ね歩き、現場の力を強化するための施策を、企業と共に考えてきた。そこで得た知見を生かし、慶應義塾大学ビジネス・スクールの校長として、次世代のリーダー育成に力を注いでいる。
コスト削減ではなく、技術伝承を重視するために、今からできることはないのだろうか。
「大事なのは、まずリーダーが現場に足を運ぶことです」と河野教授は強調する。
「会議室で議論をしても改善策は浮かびません。何度でも現場に足を運び、社員と同じ目線に立って、問題点がないか見て回るのです。リーダーにとって現場を歩くことは、実は怖いことでもあります。現場を詳しく知っている社員から、どんな質問や要望が出るかわからないし、それらにその場で答えられなければ、リーダーとしての資質が問われてしまうでしょう。しかし、現場の状況に普段から気を配り、問題解決のための知識を積み重ね、その上で何か不都合はないかと尋ねて回ること。そして、どのような要望にも、明確な方向性を示すことが大切です。そうした行動を繰り返すことにより、リーダー自身がさらに知識を深め、また現場の困りごとを吸い上げるといった循環が生まれます。こうしたリーダーのいる現場は活性化し、その結果として信頼され尊敬されるリーダーが育ちます。技術伝承の土壌も育ちやすくなるでしょう」
「リーダーが現場に行くことには、もう一つの意味があります。現場には必ずムダがあり、ムダを省いていく改善活動が極めて大切です。改善を追求することは、どんな技術・技能が品質の向上に影響しているかを知ることに結びつき、その知見が技術・技能の伝承に生かされるのです」 では、現場のミドルマネージャークラスや中間管理職には、何ができるだろうか。
「基本的にはリーダーと同じです。若手が何を考え、何を悩んでいるかを知ろうと意識し、行動することです。上から目線で指導するのではなく、悩みが何かを一緒になって考えていく姿勢が、現場のマネージャーに期待されている大切な役目でしょう」
安全マニュアルや、基礎知識を座学で教えることも大切だが、若手が悩んでいることを汲み取るマインド、同じ目線で対話する人間性こそが、リーダーシップの本質だと強調する。そのマインドを感じ取ったとき、社員は、この人についていこうという意を強くする。

挑戦と失敗の繰り返しが技術伝承の下地をつくる

では、技術という企業最大の財産を受け継ぐ側である若手スタッフは、どういう姿勢で臨むべきだろうか。
「現場で作業している人をサポートするために、使いやすい道具やツールの開発に取り組み、挑戦と失敗を繰り返すことに尽きるでしょう。自分で挑戦するには論理的に考えを組み立てなければならず、何度も挑戦していくうちに、自分に足りない知識や経験が見えてきます。その結果、自分で調べてみよう、あるいは先輩に聞いてみようというモチベーションが湧いてきます。それが技術を受け継ぐ素地をつくるのです」
研修の強化や、手順を文書化するといった技術伝承の仕組みは、あくまでも手段である。まずは、若手に技術を吸収する立場としての意識や準備が整っていなければ機能しないと、河野教授は続ける。
「そのために若い人にぜひやってほしいことは、ときに情報を遮断して、沈思黙考することです。そもそもこの会社が成長したのはなぜなのか。どういう技術がこの会社を伸ばしてきたのか、その技術がないとどうなるのか。人に頼らないで自分で考え抜けば、この技術がないと会社が困り、顧客にも迷惑がかかり、最終的には社会にも影響する、といった構造が見えてきます。広く長い視野で深く考えれば、この技術を引き継いでいかなければならない、と実感するはずです。そうなって初めて、技術伝承は強制されるものではなく、若手スタッフ各人の問題となり、伝承のための仕組みが機能します」

趣味を持って深く考える

「さらに、どんなことでもいいので趣味を持ってほしいですね。趣味は、仕事とは異なる視点から世の中の仕組みやものづくりの哲学を考えるきっかけを与えてくれます。私は野球のファンなので、テレビ観戦だけでなく、ときどき球場へ足を運びます。球場全体を見ていると、一球ごとに守備位置を変える選手や、試合の流れを大きく左右するわずかな間合いに気づきます。スコアには、数字では表せない姿勢や考え方が反映されています。気軽に観戦するのもいいですが、時には一つのプレーの背後にある理由を考えてみると、野球の奥深さに触れることができます。こうした経験には、試合結果の情報だけでは得られない要素があるはずです。多くの情報を高速に処理することが求められる時代ですが、腰を落ち着けて本質を見極める姿勢は、それ以上に大切だと感じます。技術や技能の伝承も、その方法を考えるよりも、技術が社会で果たす役割を深く考えることから出発すべきだと考えています」
見識と人間性にあふれたリーダー、魅力ある現場、問題意識を持ち自ら行動できる社員。あなたの会社には、欠けているピースはないだろうか。

会議室を出て、現場に行こう01

慶應義塾大学大学院経営管理研究科 委員長・教授
慶應義塾大学ビジネス・スクール校長

河野 宏和(こうの ひろかず)

1980年慶應義塾大学工学部管理工学科卒業、’82年同大学大学院工学研究科修士課程修了、’87年博士課程単位取得退学、’91年工学博士(慶應義塾大学)。’87年慶應義塾大学大学院経営管理研究科助手、’91年助教授、’98年教授となる。2009年10月より、慶應義塾大学大学院経営管理研究科委員長、慶應義塾大学ビジネス・スクール校長を務める。公益社団法人日本経営工学会会長、TPM優秀賞審査委員、IEレビュー編集委員長。近著に『現場が人を育てる』(共著:日刊工業新聞社刊)がある。