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山梨大学

すべてをつかむ

片岡鶴太郎02

部分ではなく、全体を見渡すことで、見えてくる答えがある。
がん診断にまたひとつ大きな武器が加わろうとしている。

2分間の衝撃

たった2分でがんかどうかを判別できる。その臨床研究開始のニュースは大きな衝撃とともに受け止められた。
がんの外科的手術では、がん化している部分をもれなく切除するとともに、がん化していない組織は可能なかぎり多く残すことが求められる。だが、その境界部分ががん化しているかどうかを見極めるのは目視では難しく、通常は手術中に切除した疑わしい部位の標本を複雑な行程を経て加工し、病理医が顕微鏡で観察。その熟練した鑑識眼でがんかどうかを診断している。所要時間は約30分。その間、開腹したまま結果を待っている必要がある。加えて、診断を下す病理医は医師全体の1%未満であり、人材不足が大きな問題となっている。
そこで病理医の支援装置として期待されているのが、山梨大学医学部の竹田扇教授らが開発した迅速病理診断支援システムだ。このシステムはたった2分で診断に有用となる判別情報を与えてくれる。このシステムは質量分析装置、データベース、統計的学習機械の3つからなり、医学、工学、統計学と異なる分野の最新の知見が出会うことで、画期的なシステムが生まれた。開発の背景には、プロジェクトを主導した竹田教授のユニークな視点があった。

神は細部に宿る

「一つひとつのデータを見ていたのではいけない。もっと全体を俯瞰的に見る必要があるのでは、と考えたのです」
哲学に造詣の深い竹田教授はデカルトやカントの思想を引き合いに出しながら開発の経緯を振り返る。
「現在の科学の主流は要素還元主義です。これは考える対象を要素ごとにどんどん細分化していって、一つひとつの要素について答えを見つけ、個別の要素だけで全体を理解するという考え方です。しかし、生物という複雑な対象を調べる時に、一部の特徴だけで全てを理解しようというのは果たして正しいアプローチなのか。特定の要素を切り出す際に、捨てられてしまう微量の成分を含めた全ての成分間の関係にこそ、解析で得たい知見が含まれているのではないか。タンパク質などの研究を進めるうちに、そういう思いが強くなっていきました」
その頃、山梨大学クリーンエネルギー研究センターで物理化学を専門とする平岡賢三教授と議論を通して意気投合。平岡教授が開発した質量分析の新技術で「がん診断を変えられるのでは」と考えJST先端計測分析技術・機器開発プログラムにおいて正式にプロジェクトがスタートした。

迅速病理診断を支える3つの技術

平岡教授が開発した探針エレクトロスプレー法(PESI)は、先端径が数百ナノメートルという極細の針を患部 もしくはその一部の組織片に刺し、数ピコリットルという細胞数個分のごく微量のサンプルを採取、高電圧をかけてイオン化することで質量分析する。従来の質量分析装置では測定前に前処理を施す必要があるが、PESIではサンプルとなる組織片をセットするだけですぐ測定できる。手術中のがん診断には何よりもスピードが求められる。PESIはそこにピタリとはまるピースだった。
もうひとつのピースが早稲田大学で数理科学を専門とする田邉國士教授が開発した学習機械(dPLRM)だ。天気予報に統計学が活用されているのはよく知られている。過去の膨大な気象データからスーパーコンピュータで予測値をはじき出すのと同じことをがん診断で実現しようとするものだ。がん患者から提供されたサンプルをまず質量分析装置で分析。どのような成分が含まれているかを網羅的に測定する。同時に病理医にサンプルの診断を依頼し、がんかどうかを確定する。このデータを蓄積していくと、質量分析装置で得られた脂質の分布傾向が、あるパターンに近ければがんである確率が高いと判断できる。データには測定したすべての成分が含まれているため、一見すると違いがわからないが、コンピュータでは高い精度でマッチングさせることができるのだ。統計学の進歩とコンピュータ処理能力向上が可能にした斬新なアプローチだ。
ここでカギとなるのは臨床データベースだ。がんであるかどうかの判断の精度を高めるためには、サンプルデータは多ければ多いほどよい。しかし、データを入手するには多忙な臨床医の負担がさらに増える。そこで竹田教授は臨床医にこの装置の有用性を納得してもらうべく自ら足を運び、様々な医療機関に協力を依頼した。
「幸いなことに、将来性を感じてくださった医療機関が続々と臨床データを提供してくれました。おかげで3年の間に精度の高いスペクトルデータが1万件以上も集まっています」

システムがもたらす未来

島津製作所も開発初期からこのプロジェクトに加わっている。その技術力と共同開発のノウハウを買って竹田教授が声を掛けたものだ。
「島津のいいものを作りたいという熱い思いが、すばらしいシステムを作り上げてくれました」
プロトタイプ機を前に竹田教授は満足そうに微笑む。そのプロトタイプ機で、2014年4月から山梨大学病院、日本赤十字社医療センターや横浜市立大学などで臨床研究が開始された。腎臓がん、肝臓がん共に90%以上の精度を誇っており、現在も精度を高め続けている。実践投入できる日も近い。
さらにこのシステムの可能性はがん判別だけに留まらない。別の疾患や食品検査、ドーピング検査など即時性や非侵襲性が求められる現場での活躍も期待されている。近い将来、医療や食品衛生などに大きな革新がもたらされるかもしれない。
「分野の枠を越えた先に、今までにない新しいものがある。私はそう信じています」
そう語る竹田教授の表情は、理想に燃えほのかに紅潮していた。

片岡鶴太郎02

2014年4月から医療機関や大学で開始された臨床研究用のプロトタイプ機

会議室を出て、現場に行こう01

山梨大学大学院総合研究部 医学域 基礎医学系(解剖学細胞生物学)
同大学 医学部 解剖学講座細胞生物学教室 教授

竹田 扇(たけだ せん)

1992年旭川医科大学医学部卒業。東京大学大学院医学系研究科に進み、1995年東京大学助手(医学部解剖学第一講座)、2004 年東京大学助教授(大学院医学系研究科)。この間、東京大学より医学博士号授与。2006 年より山梨大学大学院医学工学総合研究部教授。自活できる最小のユニットである細胞に興味を持ち、細胞生物学の研究を継続している。