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東京大学 北芳博 特任准教授

脂質分析で、病気の正体に迫る

指令を伝える脂

体内にごく微量しか含まれない脂質メディエーターと呼ばれる伝達物質に、近年注目が集まっている。
さまざまな病気のメカニズムの鍵を握ると見られるこの物質を捉えようとする研究者は、
現場“ 捜査”にこだわる一徹者だった。

指令を伝える脂

アラキドン酸、DHA、EPA。流行の健康サプリメントのようだが、これらには共通する特徴がある。体内で重要な伝達物質、脂質メディエーターに変化するのだ。メディエーター(mediator)とは「媒介者」「仲介者」を意味する。体内の代謝によって合成され、ごく微量でも他の細胞や器官に作用して、特定の反応を引き起こす。文字通りの仲介役で、その役割はホルモンとそっくりだ。しかし性質に大きな違いがある。ホルモンがペプチド(2つ以上のアミノ酸が組み合わさった化合物)であるのに対して、脂質メディエーターは脂である。また、ホルモンの多くは生産された後、一時的に蓄積される場所があり、別の信号を受けて放出されるのに対して、脂質メディエーターは必要なときに作られて即使われる。加えて、ホルモンが血流に乗って全身の細胞に作用を及ぼすのに対して、脂質メディエーターの「射程距離」は、中距離に限られる。
「脂ですから、酸化するなどして、その性質はすぐに失われてしまいます。同じ器官か、その中でも限定されたエリアにしか作用を及ぼすことはないんです。なぜ特定の情報伝達には、わざわざペプチドが用いられているのか、反対になぜ、いくつかの病態や反応には脂質メディエーターが機能するのか。もしかしたらそこにも生命現象の秘密が隠れているかもしれません」
と言うのは、東京大学大学院医学系研究科リピドミクス社会連携講座の北芳博特任准教授だ。同講座は、島津製作所と小野薬品工業(株)が出資し、共同研究を行っているもので、細胞の代謝物のなかでも脂質(Lipid)に着目し、そこから病気のメカニズムの解明や治療法のヒントを得ることを目指し研究を重ねている。

いくつあるかもわからない

一般にはあまりなじみのない物質かもしれないが、脂質メディエーター自体は古くからその存在が知られていた。例えば、アラキドン酸を材料にして作られるプロスタグランジンF2αという脂質メディエーターは、子宮を収縮させる作用があることがわかっており、陣痛誘発剤として広く使われている。また、同じアラキドン酸から作られるプロスタグランジンE2は、視床下部で作用して、発熱を促す。そのプロスタグランジンE2の合成を抑制する作用を持つ薬品がアスピリンで、1899年に発売された世界最初の人工合成医薬品だ。もっとも、解熱作用があると経験的に知られていたある植物成分の合成に成功しただけのことで、その作用メカニズムが発見されたのは1971年のことだ。
「それにしてもアスピリンの作用機序がわかったというだけで、発熱というごく一般的な現象ですら、そのシステム全体がわかっているとは言えないんです」
他にも脂質メディエーターは、がんや糖尿病、免疫疾患、炎症性疾患、感染症、精神・神経疾患など、さまざまな疾患の発症や進展に関与していると想定されているが、その詳細はほとんど解明されていない。
「脂質メディエーターの種類が、いったい全部でいくつあるのかすら、まだわかっていないんです」(北准教授)
見つけにくく、いくつあるかもわからない脂質メディエーターを拾い上げ、その働きを突き止めて、病気のメカニズムを解明するために、北准教授らが選んだ方法が「一斉分析」だ。病気の人と病気ではない人から採取した試料を網羅的に観て、どの脂質メディエーターがどれくらい含まれているかを比較する。そして明らかに差のあるものが見つかれば、そこをとっかかりにして、脂質メディエーターの働きや、病気の仕組みを明らかにしていくというアプローチだ。

いくつあるかもわからない

広い研究室に置かれたLCMS-8040のプロトタイプ。一斉分析にはLCMS-8040を、より高感度測定が必要な場合は8080と使い分けている。

生命現象に埋もれたヒントを探し出す

従来、脂質メディエーターの検出には、抗体を使った測定法が多く用いられていたがこの方法では、測定できる種類が限られていた。そのため、"いくつあるかわからない "脂質メディエーターを調べるには、なるべく大きな網を張り、「とりあえず全部」網羅的に観ることができる手法が必要だった。
また、メディエーターとなる脂質は、生体組織内でごく微量で作用を及ぼす。同じ脂質でも細胞膜の材料となるリン酸脂質などに比べれば、ノイズに埋もれてしまうくらい少ない量しか含まれない。それでもしっかりと微量物質を検出するためには、分析装置が高い感度を持っていることが必須条件だ。
観たい脂質が数百から千以上あるうえに、できるだけ多くの患者さんの試料を分析する必要がある。さらに、脂質は性質が変化しやすいため、処理スピードも重要だ。試料測定にかける時間は短ければ短いほどよい。
厳しい測定条件を求める北准教授の研究室では、島津の超高速トリプル四重極型LC/MS/MSシステムLCMS-8040が止まることなく測定を続けている。
「質量分析装置は普通、測定スピードを上げると、感度は下がりますが、LCMS-8040はスピードを上げても、データの劣化が少なく、"広く深く"測定できました。これならやれるかもしれない」と考えて、北准教授は、1000種の脂質を一度に測定する手法を採用したという。
「もちろん生命現象というのは非常に複雑で、僕らが見ている脂質だけで完結するものではありませんし、代謝物のすべてを観察するメタボロミクスでは、非常にバリエーションが多くて何が出てくるかもわからない。まだまだ僕らが見ることができているのは氷山のほんの一角で、大事なものはどこかに埋もれているはずです。この網羅的な分析で、これまであまり議論されていなかった脂質を表舞台に引き出していくことができれば、それだけでも、研究の価値があるはずです」
北准教授は、自らも装置を使いこなし、ツールの開発も行う現場主義の研究者だ。
「生のデータをこの目で見たいんです。しかも、少ない量の物質にこそ、面白いものが隠されていると考えていますから、どうすればその少ないものを見ることができるか、ツールも考えていかないといけない。でも、それも楽しいんです」
ひたむきな研究が、生命の仕組みに迫ろうとしている。

生命現象に埋もれたヒントを探し出す

超高速トリプル四重極型質量分析計LCMS-8040。同講座との共同研究で完成した「LC/MS/MS メソットパッケージ脂質メディエーター」で、関連物質130成分の一斉分析が可能となった。

北芳博(きた よしひろ)

東京大学大学院医学系研究科リピドミクス講座 特任准教授
博士(医学)

北芳博(きた よしひろ)

1998年、東京大学大学院農学生命科学研究科修士課程修了。2002年、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了(清水孝雄研究室)。同、博士研究員(2002年)、助教(2005年)を経て、2011年より現職。