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浜松医科大学 瀬藤光利 教授

今、見ているのは何?

解剖学と分子生物学の接点

顕微鏡で病理組織を観察しながら、その場所に、分子がどのように分布しているかを知りたい─。一人の医師の情熱から生まれた画期的な分析装置、イメージング質量顕微鏡「iMScope」が、医療と分子生物学に大きな変革をもたらそうとしている。

解剖学と分子生物学の接点

「まさか、ここまでいろんなことがわかるようになるとは、思ってもみませんでした」
浜松医科大学医学部の瀬藤光利教授は、驚きを隠さない。
試料を顕微鏡で観察しながら、そこにあるものが何なのか分子レベルでわかる─。瀬藤教授と島津製作所が共同開発したイメージング質量顕微鏡は、「今、見ているものが何か」がわかるという、これまでの医学、薬学の常識を大きく変えるまったく新しい分析計測機器だ。
厚さ数ミクロンの組織切片を、顕微鏡のプレパラートにセットして、まずは光学顕微鏡でのぞく。気になる箇所に狙いを定め、レーザーをピンポイントで照射し、分子をイオン化して検出し、成分分析する。レーザー光の大きさはわずか5ミクロン。細胞の一つひとつ、あるいは細胞の中でも特定の器官だけを狙い撃ちできる。少しずつ狙いを移動させて、試料全体にレーザーを照射していけば、組織切片の分子濃度マップの作成も可能だ。
医学部卒業後、臨床医として患者さんから採取した病理組織で病気を診断したり、研究室に移って分子生物学を用いて研究をしていた瀬藤教授が、「どうしても欲しい道具」と熱望し、「解剖学と分子生物学をつなぐ夢の装置」と自ら多くの企業にプレゼンし、共同開発を持ちかけた装置だ。手をあげたのが、島津製作所だった。島津はマトリックス支援レーザー脱離イオン化法(通称MALDI)の技術を有し、質量分析装置のノウハウを豊富に蓄積し、顕微鏡製作の実績もあった。
2004年、科学技術振興機構(JST)先端計測分析技術・機器開発プログラムの一環として共同研究がスタートした。MALDIは、試料にレーザーを照射することで、そこに含まれる分子をイオン化させ、照射で飛び散ったイオンの分子量と、イオンの総量を測定する仕組み。試料に特定の分子が含まれているかどうかだけでなく、その分子がどれくらい含まれているかも明らかにすることができる。問題は、そのレーザーの照射径をどこまで小さくできるかだった。照射径を絞れば絞るほど、組織内の分子分布画像の「解像度」を高めることができる。

照射径を小さくすること自体は簡単だ。だが、小さくすれば、一度のレーザー照射でイオンにできる分子の量も減って検出が難しくなってしまう。そのバランスをどうとるか、コンピュータのシミュレーションをもとに検討と最適化を重ね、島津の技術陣も総力をあげて開発を進めた。
そのかいあって、翌05年には、レーザー照射部を真空にして観察する最初のプロトタイプが完成。さらに翌06年には、大気圧下でも観察できる装置を開発した。大気圧で観察できるということは、試料を"生"に近い状態に保てることを意味する。「今、見えているものが何かわかる装置」という目標に大きく近づく一歩だった。
そこからの開発は「トントン拍子」(瀬藤教授)に進んだ。08年には分解能10ミクロン以下、すなわち細胞レベルで生体試料の分子分布を可視化できる高空間分解能プロトタイプ機を発表したのだ。

今、見ているのは何?02

研究室にあるプロトタイプ。「解剖学と分子生物学をつなぐ夢の装置」を瀬藤教授自らが多くの企業にプレゼンし、完成した装置だ。

ごく少量の生体組織中の分子分布を観察できるメリット

開発が進むにつれて、瀬藤教授が思ってもみなかった「副産物」が生まれた。
当初、教授は分子の数と種類が多いタンパク質を標的に分析しようと考えていた。ところが実際に分析をはじめると、今までは可視化できなかったコレステロールなどの脂質や、細胞活動によって生じる代謝産物(メタボライト)をうまく捉えられることがわかったのだ。
「代謝産物の多くは、ごく最近まで組織中に存在していても、それが何という物質で、なぜ存在しているのかもわからなかったんです。その分布が細胞レベルでわかるとなれば、代謝産物の全カタログを作ろうとするメタボロミクス研究に、大いに貢献するはずです」
さらに、臨床の現場にも大きな変革が届けられようとしている。
従来の質量分析装置では、試料に含まれる分子を計測するのに少なくとも1立方センチメートル程度の試料が必要だった。しかも、すりつぶして液体状にしなければならず、特定の分子が試料のなかでどのように分布しているかは知るすべがなかった。無論、生きている人から1立方センチメートルもの生検試料を切り取ることはできないので、組織中の代謝物の量を測ることで診断ができる病気であっても、患者さんが亡くなって解剖してはじめてその病気だったと確定されるのが常だった。
一方、質量顕微鏡は1立方ミリメートルの試料があれば、分子の量を、その分布状態も合わせて測ることができる。生検の要領で、いままさに病気に苦しんでいる患者さんの組織内で何が起きているかを観察することができるのだ。
「ごく少量の試料で質量分析ができることのメリットを、私自身最近まで気がついていなかったんです。しかし、プロトタイプを見てもらった医師仲間が次々に目を輝かせて『これはすごい』と。これまで手の施しようのなかった難病にも、治療方法の開発の道筋が見えてくるかもしれません」
こうした希望に後押しされて、開発スタッフは精力的にアプリケーションや操作系統の改良を加え、さらに分解能を高めた。実用化に向けて慶應義塾大学も参画し、製品として完成したイメージング質量顕微鏡「iMScope」は、13年4月の発表以来、大きな反響を呼んでいる。

ごく少量の生体組織中の分子分布を観察できるメリット

マウス網膜脂質の分布
10μmの解像度でのみ脂質多重層が識別でき、網膜色素上皮層(10μm)も観察できる。
解像度20μm、50μm、100μm は解像度10μm の質量分析画像からソフトウェア上で擬似的に作成

病気を治したい、医師の原点へ

質量顕微鏡の開発がスタートした04年当時、瀬藤教授は、「老化のメカニズムの解明」に情熱を傾けていた。なぜ人は老いるのか、それを分子レベルで追究することで、老化を遅らせ、人々が生を全うできるようになればとの思いがあった。
「いまも、人々が健康で長生きできる世界を作りたいという思いに変わりはありません。でも、アプローチには少し違いができてきました。現在、人が命を落とすのは、多くの場合老衰ではなく、がんや血管性の疾患、肺炎といった病気が原因であることがほとんどです。たとえ老化のメカニズムが解明できたとしても、これらの病気が克服できなければ、人は与えられた生を全うすることはできないのです。だから、こうした病気を治す方法、あるいは病気にならない方法を見つけ出したい。質量顕微鏡があれば、その実現に向けた、確実な一歩を踏みだせると確信しています」
現在、瀬藤教授のもとには、世界から数十人の留学生、研究者が集い、質量顕微鏡のより優れた分析法の開発や、質量顕微鏡を使った病気のメカニズム解明に取り組んでいる。近い将来、教授の研究室から、世界を驚かせる成果が報告されるかもしれない。

瀬藤光利 (せとう みつとし)

浜松医科大学医学部解剖学講座細胞生物学分野教授
医師・博士(医学)

瀬藤光利 (せとう みつとし)

東京大学医学部卒業。臨床研修を経て、廣川研究室に入り、細胞生物学の研究に従事。モーターたんぱく質の研究で数々の成果を挙げる。大学共同利用機関法人 自然科学研究機構 岡崎統合バイオサイエンスセンター、生理学研究所助教授(准教授)、東京工業大学生命理工学部連携助教授(准教授)兼任などを経て、2008年より現職。