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挑戦の系譜

イオンが流れた!

質量分析装置を2台つなげるタンデムマス。そのつなぎ目にある筒は、ただの筒ではない。
度重なる失敗にも折れない心と、ものづくりの精神を携えた開発者たちが見つけた答えとは。

タンデムマスで戦いたい

「タンデムマスはいつ出るのか?」
「国産のタンデムマスが欲しい。島津さんはないの?」
営業担当者やお客様からの声に、糸井(分析計測事業部ライフサイエンス事業統括部MSビジネスユニット糸井弘人ビジネスユニット長)はあせっていた。
2005年頃、分析化学の現場では、MS/MSという装置が脚光を浴びていた。
質量分析装置(MS)を2台重ねる特徴的な構造からタンデムマスとも言われる。
当時MS開発のリーダー役だった糸井が所属する部署には、社内外から数々の問い合わせが寄せられており、タンデムマスの開発は急務だった。

糸井弘人

分析計測事業部ライフサイエンス事業統括部
MSビジネスユニット長 糸井弘人

プールに塩の結晶一粒の濃度でも検出したい

MSは、分析したい試料の原子や分子、あるいは分子がいくつか結合したクラスタをイオン化して真空中を飛ばし、質量ごとに分けて、何がどれくらい含まれているかを検出する装置だ。極めて感度が高く、混合物である試料を分離分析するLC(液体クロマトグラフ)やGC(ガスクロマトグラフ)などと組み合わせることで、水や土壌中の汚染物質、医薬品の代謝物、食品中の残留農薬、生命科学研究など、幅広い物質の分析に活用できる。
だがMSにも苦手はある。検出の基準が分子やクラスタの「質量」であるため、質量が同じものがあると区別がつかないのだ。たとえば、窒素(14N2)の分子量は、14×2で28だが、一酸化炭素(12C16O)も12+16で分子量はどちらも28。環境試料中に存在する生石灰(40Ca16O)と鉄(56Fe)も分子量56で同じだ。これが試料中に混在していれば、MSの検出器はグラフで同じピークを示してしまい、濃度を見極めることができなくなってしまう。
有機化合物のような大きな分子は、さらにやっかいだ。農薬や薬品などを開発する過程では、世界で一日に数百の化合物が新たに生まれているといわれ、水素原子ひとつの違い、すなわち原子量1の違いで、まったく異なる性質の物質ができあがる。
しかも近年、ユーザーが求める感度はPPT(1兆分の1)レベルに達している。25メートルプールに塩の結晶を一粒入れただけの濃度でも検出できるようにしてほしいというのだ。なんとかして見たいものを選り分けなければ検出ピークは膨大なノイズの海に沈み、とても検出することはできない。
タンデムマスは、このMSの宿命ともいえるノイズの問題をクリアするために考えだされた手法だ。
たとえば1台目のMSで分子量100と検出されたものだけを取り出す。このなかには、検出したい物質Aと、ノイズとなる物質Bの分子が含まれている。これをアルゴンなどの気体で満たした筒(CIDセル)のなかを高速で移動させる。すると、気体の分子に衝突して、いくつかの断片に分かれる(フラグメント)。
これを2台目の質量分析装置に流し、それぞれの断片がどれくらいあるかを計測するのだ。
陶器を地面に叩き付けて割れば、1つとして同じところで壊れることはまずないが、このフラグメント化の過程では、同じ分子やクラスタは、結合の弱いところなどから同じように壊れる。分子Aは分子量60と40の断片に分かれるが、分子Bは分子量30と70の断片に分かれるといった具合だ。何がどのように断片化するかは、ライブラリを照合すれば、もともとの試料中に分子Aがいくつ、分子Bがいくつあったかということがわかるという仕組みだ。

プールに塩の結晶一粒の濃度でも検出したい01
プールに塩の結晶一粒の濃度でも検出したい02

2012年5月に世界同時発売した国産初のGC/MS/MS、超高速トリプル四重極型ガスクロマトグラフ質量分析計GCMS-TQ8030(上)と、LC / MS /MS のLCMS-8040(中)、LCMS-8080(下)。

つなぎ目にある筒が課題

島津製作所は1970年代から質量分析装置を開発している。その島津がタンデムマスの開発で慎重になっていた理由は、2台のMSをつなぐこの円筒にあった。CIDセルのなかで気体の分子にイオンがぶつかると、イオンが持っていた運動エネルギーが失われて筒のなかで滞留する。そうすると後からやってくる他の質量のイオンと混ざってしまい、2台目のMSに流れ込んだ時点でゴーストが発生するのだ。
この問題を解消するために、各社がしのぎを削っていた。島津もどういう方法でこの問題をクリアするか、技術者が日夜頭を悩ませていた。

「それ、うまくいくかもしれませんよ」

「それ、うまくいくかもしれませんよ」

奥村大輔は、大学でMSの研究を続けていたが、紹介を受けて2005年に島津製作所に入社。そのままタンデムマスの開発に専従することになった。
「ビジネスユニットには、他社に対抗できるものを作るのは難しいのではないかとういう空気が漂っていました。加えて主力製品の改良などで、割ける人員もなかった。ここは新鮮な目でやったほうがいいのではということで、新人を抜擢したんです」(糸井BU長)
できたての「タンデムマス開発チーム」は、それまでビジネスユニットのなかで温めていたアイデアを次々と実験に移していった。物理屋の奥村が仕組みを考え、糸井や経験豊富なビジネスユニットメンバーがサポートするという形だ。だが、ことごとくうまくいかない。課題は2台のMSをつなぐ円筒だ。

基本に立ち返ってもう一回やってみようと、以前、加工が悪くて組めなかった古い筒を持ち出した奥村。その筒で試したら、一方の方向では相変わらずイオンのスピードが出なかったが、反対に設置するとスムーズに流れたのだ。
「よくよく見たら、その筒がゆがんでいたんです。なんとか利用しようと、私がペンチで調整したときに、形が崩れてしまったんです」(糸井BU長)
それを見た奥村は、ぱっとひらめいた。
「それ、うまくいくかもしれませんよ」
さっそく、社内の設計技術センターにイオンの軌道をシミュレーションしてもらったところ、やはりうまく流れる。知的財産部の特許調査や鑑定でも問題なし。
一気に展望が開けてきた。
「いい筒ができそうだ」という報を受けて、タンデムマス開発チームには続々と人が送り込まれた。経験豊富な向畑和男と水谷司朗がそれぞれ機械系、電気系の設計をリードしていった。最後発だけに、価格で勝負する必要があったが、それも技術部のメンバーたちの努力により、各部で徹底的なコストダウンを図り、島津製タンデムマスは、急ピッチで形になっていった。

ついに完成

2010年8月、ついに念願のLC/MS/MSが完成した。国産初のトリプル四重極型液体クロマトグラフ質量分析計LCMS-8030だ。それは、世界トップの検出スピードを持つと同時に、圧倒的なコストパフォーマンスで、業界を驚かせた。
そして2012年5月、国産初のGC/MS/MS、超高速トリプル四重極型ガスクロマトグラフ質量分析計GCMS-TQ8030と、LCMS-8030の感度を高めたLCMS-8040、さらにはハイエンドモデルのLCMS-8080を世界同時発売した。製品化を決定づけた糸井と奥村の「筒」、超高速輸送コリジョンセルUFsweeper®は、現在特許申請中だ。
あの時、もう一度新しい筒を発注してきれいな形のものを手にしていたら、見つからなかったタンデムマスの技術。「大学時代は鉄を削っていた」というものづくりの徒、糸井がいたからこそできた「発見」といえるだろう。
彼らの挑戦は、今日も続いている。

超高速輸送コリジョンセル UFsweeper(R)

左上:超高速輸送コリジョンセル UFsweeper®

糸井弘人(いとい ひろと)

株式会社島津製作所
分析計測事業部ライフサイエンス事業統括部 MSビジネスユニット長

糸井弘人(いとい ひろと)