バックナンバーBacknumber

小倉記念病院

決して妥協してはならぬ

神の手を持つ医師

思ったことは決して曲げない。人によっては頑固に映る。だが、それもすべては患者の幸せを願えばこそ。
日本の冠動脈治療に革新をもたらした一徹な医師の半生を振り返る。

神の手を持つ医師

あのときPCIがあったら、10分で治せていたのに。いま思い返しても、残念でならない」
と、若かりし頃を述懐するのは、社会保険小倉記念病院の延吉正清院長。冠動脈インターベンション(PCI)治療を日本で初めて行い、その普及に尽力してきた第一人者だ。
PCIはカテーテルの先端に風船や金属製の特殊な網を取り付けて心臓にまで届け、そこで風船をぐんと膨らませて、詰まってしまった血管を広げる治療法だ。狭心症や心筋梗塞といった血管の内壁に粥状物質がたまって血管内が細くなってしまう虚血性疾患の治療法で、小倉記念病院だけでも年間2、500人がこの治療を受ける。
心疾患の患者数は明治以降、一貫して増え続けており、近年はがんに次いで死亡原因2位を続けている。脳疾患(くも膜下出血、脳内出血、脳梗塞)と合わせると、死亡数はがんに迫る。その予防と治療は、国の喫緊の課題だ。
この分野に携わる人間で、延吉院長の名を知らぬ者はいない。一般的に1時間かかる治療をわずか10分で終わらせ、日に20例も治療を行うなど、伝説的な逸話がいくつも残されており、「神の手」を持つとまで称される。
だが、その道のりは決して平坦ではなかった。

牢屋に入れられてもいい

1974年、若き延吉医師は小倉記念病院に赴任したとき、そこには心電図がわずか1台、患者もほとんどいないというまさに一からのスタートだった。
当時、冠動脈治療といえば、薬剤治療か、詰まった血管を切除して健全な血管を縫い合わせるバイパス手術と相場が決まっていた。バイパス手術では全身麻酔をした上で開胸する必要があり、患者の身体的・精神的負担も決して少なくはない。延吉氏は、少しでも患者の負担を減らそうと、赴任当初から「冠動脈血管造影」に取り組んだ。
冠動脈血管造影は、足の動脈からカテーテルという管を心臓まで通して造影剤を注入、心臓の血管をエックス線装置で診察する技術だ。開胸する前にどこが詰まっているかを確認できるが、装置の性能が伴わなかったこともあって、当時これを行っていた施設は国内でも数えるほどしかなかった。カテーテルを冠動脈に入れるのも決して簡単ではなく、むしろ危険な検査法というイメージが付きまとっていた。
「私自身経験がなく手探りでのスタート。それはもう反対の嵐でした。近隣の医師や大学からも反対され、何人もの患者さんが病院を離れていきました。それでも患者さんの負担軽減を思えば、絶対にやるべき検査だという信念が僕にはあった。もし裁判を受けることになって、4、5年収監されてもよいとさえ思っていました」
自ら装置の改良や、技術の研鑽に努め、1年後には検査体制を軌道に乗せることに成功。心臓病治療は実績を上げ始めた。

財団法人 平成紫川会 社会保険 小倉記念病院

財団法人 平成紫川会 社会保険 小倉記念病院
1916年の開院以来、地域の拠点病院として活動。1970年代より心疾患治療に力を入れ、心臓外科手術、冠動脈インターベンション治療では、国内トップクラスの実績を誇る。2010年12月、小倉駅前に総合病棟と心臓血管病棟からなる新病院を建設し移転。同院で治療を受けるため日本はもとより、世界から患者さんが集まっている。
http://www.kokurakinen.or.jp/

失敗を乗り越えて

それから数年後、AHA(アメリカ心臓協会)の学会で発表されたニュースを聞いて、延吉氏は顔を輝かせた。PCIで狭心症の症状が軽快したというのだ。その発表から間もなくアメリカでは多くの病院でPCIを採用し、良好な成績が報告されていたが、国内では血管内壁を傷め、それがもとで血栓を生じさせるとして、懐疑的な見方が優勢だった。
「その心配がなかったわけではありません。しかし、これは患者さんのためになると、私の直感が告げていました。ここで妥協はできない」と、81年、1回目のPCIを決行した。
「失敗でした。ガイドのワイヤーが狭くなっているところを通過しなかったんです」
万一に備えてスタンバイしていた心臓外科チームが緊急バイパス手術をして、事なきを得たが、2例目、3例目も失敗。ついには心臓外科チームから「こんなに心臓外科に面倒をかけるPCIなど、中止しろ」とまで言われたという。
それでも延吉氏は信念を曲げることはなかった。以後、1年足らずの間に20度も渡米し、PCI治療の現場を見学。食い入るように治療の様子を覗き込み、手技の上手な米医師に質問を浴びせかけたという。
そして1例目からおよそ1年後、4人目でついに成功の日がやってきた。血管内に粥状物質が蓄積して血液が通れる隙間が残り10%ほどになっていた74歳の男性。術後すぐに元気になり、4年後にがんで亡くなるまで、狭心症で悩まされることは二度となかったという。
「痛みも少なく、術後の経過も良好で、すぐに退院していかれた。そのうれしそうな姿を見たとき、これは絶対に冠動脈疾患治療の中心になる、と確信しました」

常に「1分の1」

その言葉通り、以後急速にPCIは普及していく。もっとも、その背景には、延吉氏の院外での積極的な活動によるところも大きい。延吉氏は、84年から「小倉ライブ」と冠して、院内の治療室と院外の会場を映像でつないだPCIのライブデモンストレーションを開催している。
「私自身、技術を身につける上では、アメリカで上手な術者の手技を実際に見ることがいちばん役に立ちました。教科書を読むだけでは決して理解できないコツがそこにはたくさんあるんです」
1回目から300人を超える医師が詰めかけ、すぐに翌年の開催を決定。以降東日本大震災の影響で中止となった今年を除き毎年開催し、PCIの普及を後押ししてきた。いまや日本心血管インターベンション治療学会に所属する医師だけで、5000人を超え、日本中でPCI治療が盛んに行われている。
 「私が循環器医になった当初、冠動脈疾患で入院された方の50%の方が亡くなっていました。しかし、いまは入院される方の99%が元気になって退院していきます。本当に隔世の感がありますね」
2010年12月、小倉駅前の広大な敷地に延吉院長の思いのこもった新病院が完成し移転した。ここには、心臓カテーテル専用室が6部屋あり、45人の循環器専門医がいる。全室に導入された島津製作所の血管撮影システムBRANSIST safire(ブランシスト サファイア)も、夜の7~8時までフル稼働している。
40年前、私が初めて撮影した造影画像はまるで闇夜のカラスでした。今の装置は画像が鮮明で、使い勝手もいい。装置やデバイスの進化が安全で確実な治療を支え、医師の技術も向上し、救える命が増えたのです」
延吉院長は、後進の医師らに「常に1分の1で全力投球」と諭しているという。
「たとえ1000人の患者さんを治療しても、目の前にいるのは1人の患者さん。気を抜くことは許されない。その気持ちを医師は決して失ってはいけません」
常に「1分の1」

常に「1分の1」02

岩淵成志 循環器内科主任部長と、全室に導入された血管撮影システムBRANSIST safire

常に「1分の1」03
常に「1分の1」04

心臓カテーテル室の様子

延吉正清(のぶよし まさきよ)

財団法人 平成紫川会 社会保険 小倉記念病院 院長
財団法人 平成紫川会 理事長
京都大学医学部 臨床教授
医学博士

延吉正清(のぶよし まさきよ)

福岡県北九州市出身。京都大学医学部卒業。1974年より社会保険小倉記念病院内科勤務。2002 年より現職。日本で初めて経皮的冠動脈形成術を行ったのをはじめ、循環器科において、数々の先進的事例を実践し、循環器治療に革新をもたらした。日本心血管インターベンション治療学会名誉理事長。