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東京海洋大学 高橋肇 助教授

食の安全を未来につなげる~食品微生物と食中毒~

逃げ延びようとする食中毒の原因菌

食べ物は人の命の根源。食の安全と安心に注目が集まる昨今、どうやって食中毒を防ぐかは、ますます重要になっている。
東京海洋大学食品微生物学研究室では、微生物の働きを通して食のあり様を見つめてきた。
同研究室の高橋肇助教に、食を守る最先端の技術について伺った。

逃げ延びようとする食中毒の原因菌

腸管出血性大腸菌O-157。強烈な感染力を有するこの菌は、たびたび人の健康を害し、ときに命さえ奪ってきた。実はこのO-157、自らが生き残るための狡猾さも兼ね備えている。一度経験した危険を学習し、逃げる方法を自ら編み出してしまうのだ。
「食品の製造工程では、酸などを使って微生物の増殖を抑えることがよくありますが、ときおりこういった酸ストレスを覚えてしまうO-157が出現します。次に同じストレスを浴びた際に防御する方法を身に付けてしまっていて、やっかいなんです。数十分単位で世代交代する細菌ならではの現象です」
そう語るのは、東京海洋大学食品微生物学研究室の高橋肇助教。「食品微生物学」界の新進気鋭の研究者だ。
食中毒の原因は細菌やカビといった微生物だ。その種類はきわめて多岐にわたり、大腸菌ひとつとっても細かく分かれている。生肉の食中毒問題の原因となったO-111などは記憶に新しいところだろう。また、炎天下に放置した弁当を食べて嘔吐や腹痛を引き起こすのは主に黄色ブドウ球菌の作用だし、魚に含まれる高濃度ヒスタミンも食中毒の原因となるが、これにも微生物が関与している。

食中毒の原因を洗い出し増えないように制御する

もとより微生物に悪意はない。ただ生きていくための活動の結果として、たまたま人間の体にとっては有害な微生物もいたというだけである。人間にとって有益なものであれば、味噌や醤油、発酵乳製品、酒などの発酵食品として、大いに喜ばれるものとなる。近年はこの微生物の力をテーマにした研究がさかんで、抗酸化機能などを持つ有用な菌を用いて機能性食品を作るといった試みもなされている。
一方で、高橋助教が専門としているのは、前段でも述べてきたような「守る」側である。10年程前に研究の道に飛び込んで以来、食品の安全を主テーマに取り組んできた。
「安全にも2つの視点があり、食中毒が起きたときの“原因特定”がまずひとつのポイント。もうひとつは、製造工程等で食中毒菌の挙動を抑え込む“制御”も重要な観点となっています」
古くから食中毒菌の特定には、検体となる菌全体を増やす「培養法」が用いられてきた。詳細に菌の性状を把握できるメリットがある反面、培養にも、その後の原因菌特定のための作業にも時間がかかり、原因を特定するまでに早くても2日、長いと1週間前後かかってしまうこともあった。
しかし、食中毒の原因特定は、迅速であることが非常に重要だ。そこで、その点で有用な技術として、「PCR法」と呼ばれる遺伝子増幅技術が、食中毒の原因菌を特定する手法として使われてきた。
PCR法とは、簡単に言えば、DNAを抽出して、特定の遺伝子だけを増幅する方法だ。反応時間は2時間程度。その後の遺伝子の特定を含めてもその日のうちに結果が得られる。
「PCR法は、培養法に比べればかなり早いことは事実ですが、緊急を要する食の現場ではまだ遅いと感じられる方も多いのではないでしょうか。食中毒の被害を最小限に食い止めるためには、一刻も早く原因生物を特定し、適切な対策を打ち出すことが重要です。さらに迅速に、より正確にというニーズは強まる一方です」
そうした声に応える一つのアプローチとして、昨年、高橋助教ら東京海洋大学では、島津製作所の最新鋭質量分析計MALDI-TOFMS AXIMAシリーズを用いたAXIMA微生物同定システムを導入した。質量分析計は、試料となる対象中のタンパク質などを測定し、その対象が何であるかを特定する装置だ。高橋助教らは「コロニーダイレクト微生物同定法」としてこの システムを活用している。

コロニーとは、寒天などの上で菌を培養したもの。理科の実験などでもおなじみだ。
「PCR法の場合はDNAの抽出だけでも骨が折れる作業だったのですが、コロニーをプレートに載せてAXIMAにセットするだけで、30秒ほどで微生物種を同定できるようになりました。PCR法に比べると細かいところが判別できない点があり、データベース等これからの研究の積み重ねが欠かせませんが、迅速性は格段に高められたと感じています」
このシステムは学内研究者はもちろん、他の共同研究先の民間企業にも利用されている。

AXIMA 微生物同定システム

研究室で「コロニーダイレクト微生物同定法」として活用されている島津製作所のAXIMA 微生物同定システム

技術の発展が食の安全を守る

技術の発展が食の安全を守る

今後、高橋助教がテーマとしたいのは、冒頭にも挙げた変容する微生物だという。殺菌などのストレスをかけることで菌を抑えているのが今の食品の作り方。各メーカーともにワーストケースを想定して対策を施している。しかし、菌自体が 変化していくのであれば、いずれは想定以上の事態を招くことにもなりかねない。
「通常ならば死滅させられるほどのストレスを乗り越えてしまった菌が人体に入ったとき、どのような事態が引き起こ されるのか。そのメカニズムを浮き彫りにすれば、まさかの事態の対応もスムーズに行えるようになるかもしれません」
高橋助教が研究者として歩み始めて 10年あまり。若き頭脳が、食の未来を しっかりと支えようとしている。

高橋 肇(たかはし はじめ)

東京海洋大学海洋科学部食品生産科学科食品微生物学研究室 助教 博士(水産学)

高橋 肇(たかはし はじめ)

1998年に東京水産大学水産学部食品生産学科卒業後、同大学大学院水産学研究科へ進学。2003年3月に博士後期課程学位取得修了。水産学の博士号を取得する。社団法人日本食品衛生協会リサーチレジデント、国立医薬品食品衛生研究所衛生微生物部勤務、山脇学園短期大学食物科専任講師などを経て、07年4 月より現職。食品微生物学、食品衛生学を専門としている。