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(注)所属・役職および研究・開発、装置などは取材当時のものです。

タンパク質の動きをとらえて細胞増殖のメカニズムを解明

ある、がん研究者の肖像

愛媛大学大学院医学系研究科 生化学・分子遺伝学分野教授 医学博士 東山 繁樹

がんは、栄養を補給するために血管を新しく作って自らに引き込む性質がある。
そのメカニズムを探っていくと、細胞の増殖・分化、発生にかかわる重要な秘密が見えてきた。
細胞のなかで繰り広げられる分子のドラマの筋書きを、研究者の情熱が紐解こうとしている。

血管の不思議

人間の体は、いったん形が決まってしまうと、簡単に形を変えたり、細胞の数が増えることはない。
だが、極めてダイナミックに形を変える組織がある。血管がそれだ。たとえば女性が妊娠した時は、胎児に栄養を運ぶために胎盤に太い血管が呼び込まれる。ケガをすると、そこを修復する材料と栄養を運ぶために、それまでなかったところに血管が新生される。また、がんができた時も血管が新生され、せっせとがんに栄養と酸素を供給することになる。
がん細胞は大食いである。がん細胞は大量の栄養分と酸素を必要とするため、ある因子を分泌して、周囲の血管に指示を出す。それにより本来プログラムされている以上に枝分かれして、長く伸びるように変化するのだ。

一生の師

今ではがん研究の常識となっているこの事実も、40年前ハーバード大学のジュダ- フォルクマン教授(1933-2008年)が提唱した時は、誰も見向きもしない仮説に過ぎなかった。
「私が彼の研究室に行きたいと相談すると、『そんな研究をしても意味がないよ』と言われました」
愛媛大学の東山繁樹教授は、当時を振り返る。農学部でミルクアレルギーを引き起こすタンパク質を研究し、その後医学部で血液凝固タンパク質の研究に出会う。しかし更に世の中に役立つ研究がしたいという夢に燃え、海を渡った。
フォルクマン教授の理論は明快だった。がんは血液が供給されなければ、直径3センチ以上大きくはならない。がんが血管を新生する仕組みを阻害すれば、消滅できなくてもがんと共存することは可能なのではないか。東山教授が研究室に加わった時、血管の細胞を増殖させる因子がいくつか見つかり始め、研究室が熱を帯びていた時期だった。
「お会いしてすぐ先生の情熱と人柄に心底惚れました。この人を一生の師として研究できることが本当に幸せで、我を忘れて研究に没頭しました」
とは言うものの、因子を見つけるのは簡単ではない。がん細胞からタンパク質を一つひとつ抽出精製し、そのうち一つだけマウスに植え付けて血管が新生されるかどうかを確かめる。因子となる候補タンパク質の数は、数千から一万個にも及び、一つの発見に何年もかかっていた。しかし農学部時代に培った東山教授のタンパク質を扱う技術が役に立った。わずか7カ月で増殖因子の一つ、HB-EGFを発見したのである。
だがそれは、一生の師としたフォルクマン教授の血管新生の研究から大きく離れることを意味していた。

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いかにして細胞は増殖するか

「発見したものの責任」として東山教授は、日本に戻りひたすらHB-EGFと格闘し続けた。発見することと、その仕組みを解明するのは全く別の話だ。増殖因子が受容体に結合した結果、どんなシグナルが細胞内に送られて細胞分裂が促進されるのか。そのシグナルのネットワーク図を描くことができてはじめて、ネットワークを阻害する薬の開発につなげることができるのだ。
しかし、そこで得られた結果は、予想を遥かに超えて興味深いものだった。HB-EGFの前駆体であるpro-HBEGFは、細胞膜の表面に生えている膜タンパク質である。この膜タンパク質は酵素によって根元から刈り取られ、細胞の外を漂いはじめる。これがHB-EGF、車でいえばカギにあたる。そして同じ細胞の表面にあるカギ穴(EFGR)にくっつくと、細胞内にシグナルが発生。「増殖を始めよ」と言う命令が伝達され、アクセルを踏み込むこととなる。
だがサイドブレーキをかけたままアクセルを踏んでも車が動かないように、細胞は増殖を簡単には始めない。そのサイドブレーキに当たる制御系のネットワークが存在し、そこが解除されなければ前へ進まないことが、近年の分子生物学の進展で解明されつつあった。

生物にはムダがない

ある日、東山教授はHB-EGFが刈り取られた後の細胞の表面に目を留めた。ヒゲのそり後のように残るものがあり、いつしか消えてしまうもの。長い間、一般的に意味の無いゴミとして処理されていた。
「ふと、気になって調べてみたんです。するとその切り株は、刈り取られると同時に、細胞のなかに潜り込み、形を保ったまま細胞の中心にある核にたどり着いて、サイドブレーキをはずす役割を果たしていることがわかったんです」
細胞増殖のアクセルと、サイドブレーキをはずす因子が実は同じものだった。しかもまるで坂道発進のように、絶妙なタイミングでコントロールされている。まったく新しいコンセプトの登場に、関係者は色めき立った。
この事実を突き止める上で、島津の装置も一役買っている。研究室にはインフォマティクスも駆使してタンパク質を同定するAXIMA-TOF2をはじめ、様々な装置が並んでいる。研究室拡張の際、東山教授は装置だけでなく担当者やサポートの良さも重要と考えていた。島津はその期待に、速やかなサポートが可能な装置レイアウトや、周辺環境を考慮したプランで応えた。そんな環境の中、この装置で細胞中を移動し細胞核に侵入する„切り株ペプチド“ の姿を捉えたのだ。
「学生時代に『生物には、ゆらぎはあるが決してムダがない』と教えられました。あの切り株が気になったのも、この言葉が頭に残っていたせいかもしれませんね」
医学者として農学部出身は異色の経歴だが、だからこそ発見を後押ししたと言えそうだ。

抱き続けた血管新生の研究に

いま東山教授は、HB-EGFで見つけた新コンセプトが他の増殖因子についても当てはまるか検証を進めている。HB-EGFは、血管の外側を構成する平滑筋細胞の増殖因子で、血管増殖のメカニズム解明には、その内側にある内皮細胞の増殖プロセスの解明がキーとなる。その内皮細胞の重要な増殖因子についてもこの新コンセプトが当てはまることが、昨年末までにわかってきた。
自らの発見により恩師の元を旅立って20年。その研究が結果として血管新生の謎の一つを解明することにつながった。回り回って、本来の目的である血管新生に戻って来たのだ。
「それを見届けるかのように、フォルクマン先生は天国へと旅立たれました。残りの人生を、私は血管新生の研究にかけるつもりです。この世界へと導いてくれた天国の恩師に、少しでも多くの手みやげを届けたい。そしてその結果ががんに苦しむ方の痛みを和らげることにつながれば、それ以上望むことはありません」
「人や運、人生のすべての出会いに意味がある」と熱く語る東山教授の部屋で、フォルクマン教授の肖像が、穏やかに微笑んでいた。

 
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愛媛大学大学院医学系研究科 生化学・分子遺伝学分野教授 医学博士

東山 繁樹(ひがしやま しげき)

1982年信州大学農学部卒業、84年同大学院農学研究科修士課程修了。乳児のミルクアレルギーのメカニズム解明に取り組む。88年名古屋市立大学大学院医学研究科博士課程修了後、日本学術振興会特別研究員を経て、89年米国ハーバード大学医学部小児病院外科研究部門の研究員を務める。92年大阪大学医学部で助手、助教授を務め、2002年から現職。血管新生の分子生物学的側面からの探究を続けている。

(注)所属・役職および研究・開発、装置などは取材当時のものです。