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(注)所属・役職および研究・開発、装置などは取材当時のものです。

生命現象解明のカギ

糖鎖を追う

産業技術総合研究所糖鎖工学研究センター 副センター長 成松 久

生命現象はどのようにして起こっているのか。ゲノムの塩基配列が解明され、その産物であるタンパク質の研究も進み、我々は少しずつ核心へと迫りつつある。その道程に立ちはだかる新たなる、そして最大の関門が「糖鎖」だ。極めて構造が複雑なうえ、生体内においてダイナミックに変化する糖鎖。だが、その全容をとらえることができれば、がんをはじめとする難病の診断治療に画期的な成果をもたらすとされている。体内で糖鎖が作り出されるカギとなる糖鎖遺伝子の研究で世界の最先端を走る産業技術総合研究所糖鎖工学研究センター副センター長の成松久氏に、糖鎖研究の最新事情を聞いた。

体内でダイナミックに変化する物質

「遺伝子の重複を待っているだけでは、たかだか数十億年で微生物が人間にまで進化することは、物理学的にありえない。もっとダイナミックに変化するもの、すなわち糖鎖が大きく作用しているに違いないんです」
糖鎖とは何か。それを端的に表現するという質問に答えて、成松氏はこう説明する。
遺伝子の塩基配列が解明され、タンパク質の研究も急速に発展。ライフサイエンスは生命の神秘に迫ったとされる。だが、これは一面では正しいが、かえって新たな謎の存在を大きくクローズアップすることになった。それが糖鎖である。
糖鎖とは、糖の分子が文字通り鎖状に何個も結びついた高分子だ。多くのタンパク質は、生体内でその表面にびっしりとこの糖鎖をまとうことで、それぞれの機能を果たしている。外来の微生物が細胞に侵入したり、細胞同士が連絡を取りあい、接着するのも、糖鎖の働きによる。
タンパク質を餅とすれば、その周りにまぶすものが糖鎖だ。同じ餅であっても、まわりにまぶすものがきな粉だったり餡だったり塩だったり、あるいはそれらすべてをまぶすことで、その味(機能)は、大きく変化する。
糖鎖の異常は、さまざまな病気の原因となり、反対に病気によって糖鎖構造にも大きな変化が生じることもある。しかもその変化の度合いはタンパク質の変化に比べるとケタ違いに大きい。
「一組の遺伝子によって一つのタンパク質が作られるというタンパク質合成の仕組みに比べ、糖鎖は非常に複雑です。糖が合成され、それが一定の順番で樹状に連なり、ときに枝分かれしたりしながらタンパク質の表面についていく。それに関与している遺伝子が何で、どう作用しているのか、しらみつぶしに調べていかないといけない。簡単ではありません」
裏付け捜査にも似た地道で根気のいる作業。だが、成松氏らの活躍で、糖鎖研究はいま新たなフェーズに入ろうとしている。

糖鎖の機能の解明を目指す

糖鎖研究に欠かせない武器は3つある。糖鎖遺伝子と、糖鎖合成ロボット、そして質量分析装置だ。
成松氏は、アメリカ国立衛生研究所に留学していたときに、糖転移酵素(糖を1個ずつつなげて糖鎖を合成する酵素)をつくる遺伝子の第一号を発見した。
1985年のことだ。以来、世界中で先を競って糖転移酵素とそれを生成する遺伝子が発見され、現在までに約180種類近くが見つかった。その多くに成松氏がかかわっている。
これらの遺伝子由来のリコンビナント酵素を糖鎖合成ロボットにかけると、さまざまな構造の糖鎖ができあがる。こうして多種類の糖鎖構造のライブラリがどんどんと合成されている。それらを標準糖鎖として質量分析装置で解析すると、その構造を把握することができる。こうして糖鎖のライブラリはほぼ完成に近づいている。
次の目標は、病気になったときにどんな糖鎖が合成されているのか、あるいは糖鎖にどんな変化が起きているのかを解析すること。すなわち各糖鎖の機能の解明だ。これができれば、病気の兆候をごく初期で発見できる可能性が高まる。
成松氏には確信がある。
「がんを例にとれば、ごくありふれたタンパク質でも、がんになればその表面の糖鎖構造は大きく変化しているはず。直径1センチのがんが直接放出する物質(糖鎖)を突き止めることができれば、がん医療は大きく変わります」
患者さん(と思われる人)から微量のサンプルを取りだし、そこに特異的に存在する糖鎖を割り出す。そして、ライブラリとマッチングしていけば、その糖鎖が、どんなときに発生し、どんな役割を果たしているのかを特定することができる。現在医療現場で用いられている腫瘍マーカーにも糖鎖由来のものが多くあるが、体質によってマーカーの値が上昇する人としない人がいたりするなど、まだ完成された医療技術とは言い難い。より精度の高い腫瘍マーカーとなる糖鎖の発見は急務だ。

あらゆる難病の診断治療へ貢献

糖鎖の構造を解析するためには、非常に高感度な質量分析が必要だ。しかも糖鎖には、同じ質量であっても“向きが違う”異性体もあり、検出は簡単ではない。質量分析装置を二段構えにした「タンデム方式」を使えば、それを検知できるケースもあるが、まだまだ課題も多い。
「たとえば、がんでいえば、血液などのサンプルのなかからがん由来のものを選別する前処理技術が必要です。目的の糖タンパク質をいかにして濃縮するか、量の多い余分なタンパク質をいかにうまく除けるか、など適切なデータを導くにはそこが重要です」
「その意味でも、感度はもちろんのこと、だれにでも手軽に扱えるような、装置、操作技術が求められます」
がんのほかにも、免疫疾患、再生医療、生殖医療、感染症、神経疾患などで、糖鎖がバイオマーカーとして働ける場所は数限りなくある。それらの構造を解析して、その糖鎖を担うタンパク質をつきとめていけば、一人ひとりの„体質“にあわせた診断や治療、すなわちオーダーメイド医療を実現することができる。
さらに緻密に糖鎖の機能と発生のメカニズムが解明されれば、冒頭で挙げた進化、分化の秘密にも迫ることができるだろう。 その日まで、成松氏の“証拠探し”の旅は続く。

【糖鎖】
グルコースなどの糖類が鎖状につながった分子。生体内では、蛋白質や脂質などに結合して存在しており、それらの機能を調節していると考えられている。血液型も糖鎖の違いであることが知られている。

【糖鎖遺伝子】
糖鎖合成関連遺伝子。糖転移酵素、糖加水分解酵素、糖ヌクレオチドトランスポーター、レクチンなどをコードしている遺伝子を指す。

【糖鎖ライブラリ合成ロボット】
最近まで、酵素を用いて糖鎖を作るには、手作業に頼らざるを得ず膨大な時間を必要とした。現在は、工程を自動化し、素早く糖鎖および糖鎖ペプチドのライブラリを合成できるロボットが登場し、糖鎖研究を加速させている。

産業技術総合研究所糖鎖工学研究センター 副センター長

成松 久

1948年徳島県生まれ。慶応義塾大学医学部卒業、同大学院博士課程修了。1983年米国立衛生研究所(NIH)に留学。そこで糖転移酵素遺伝子の第一号を発見する。1986年に帰国後1991年創価大学生命科学研究所教授に就任。2001年、産業技術総合研究所総括研究員となり、2002年より現職。

(注)所属・役職および研究・開発、装置などは取材当時のものです。