沿革詳細

初代島津源蔵

当社の創業者である初代島津源蔵は、醒ヶ井魚ノ棚(現在の堀川六条付近)で仏具三具足の製造をしていた父・清兵衛の次男として、天保10年(1839年)5月15日に生まれました。

父・清兵衛に従って家業を修め、万延元年(1860年)、21歳の時に分家、独立して仏具三具足の製造を始めました。

その頃、初代源蔵が居を構えた木屋町二条では、勧業場、舎密局などが開設され、京都における殖産興業の一大拠点となっていました。初代島津源蔵は、舎密局が開設されると足繁く通い、理化学分野の広範な知識と技術を習得します。

わが国の進むべき道は科学立国であるとの理想に燃えて、理化学器械製造の業を始めたのは明治8年(1875年)3月31日のことでした。これが今日の島津製作所の始まりです。

初代 島津源蔵

人を乗せた軽気球の飛揚に成功

初代島津源蔵のもとに、京都府学務課長であった原田千之介氏が軽気球飛揚の話を持ち込んだのは、明治10年(1877)の初夏でした。 原田千之介氏は、理科教育の熱心な推進者で、具体例を示して京都府民の科学思想を啓発したいと思っていました。

その頃、欧米では空への関心が高く、軽気球の研究も盛んでした。 外国人の手を借りずに京都で軽気球を作り、京都の空に上げれば科学思想の啓発に最も効果的であると考え、その計画を当時の槇村知事に進言しました。

槇村知事も大賛成で、早速、舎密局で勉強し理化学器械の製造を始めた初代島津源蔵に軽気球の製作を頼むこととし、飛揚の日を招魂祭の同年12月6日と決めてしまいました。

話を持ち込まれた初代島津源蔵は、軽気球に対する知識も無く、頼りにするのは原田千之介氏がもたらした外国雑誌の一枚の絵図だけで、製作期間はわずかに数ヶ月ということで頭を抱えました。

水素ガスは鉄屑に硫酸を注げばできることはわかっていましたが、問題は水素ガスをつめる球体の材料でした。 ガスが漏れてはいけない。 重すぎても弱くてもいけない。 木綿の布に油を塗ったり、にかわをすり込んだり、試行錯誤を繰り返し、ダンマーゴム(樹脂)を荏胡麻油で溶かして羽二重に塗ったものが気密性も良く、堅牢であり、何よりも軽量であることがわかりました。

それでも、普通の大人を持ち上げる浮揚力はなく、小柄な人でなくてはなりませんでした。 軽気球の飛揚は、大変な前人気で、観覧料は一般が三銭、生徒は一銭五厘(当時、米一升が五銭強)であったにもかかわらず、4万8千枚の観覧券は売り切れたといいます。

12月6日の午前9時前、京都仙洞御所の広場にあふれる、わが国初の人の乗った軽気球が上がるのを今や遅しと瞳をこらす大観衆の前で、軽気球はおよそ36メートルの高さまで揚がることに成功しました。

軽気球を作成し、人を乗せて飛揚(1877年)

理化器械目録表を発行

1882年発行の製品カタログ「理化器械目録表」には、当時の小学校、中学校の科学教育に必要な110点もの物理器械などを掲載するまでに発展しました。

「物性学・固体動静論」「水学・気学」「音学」「熱学・光学」「磁気・電気学」の5分野に及ぶ物理器械に加え、雛形(模型)、化学器械、医療器械、さらに各種ポンプや鋳型製品など、多種多様な製品が製造できることを示しており、その巻末には「御好次第何品ニテモ製造仕候也」と、いかなる注文にも応じるだけの技術力があることも明記しています。

理化器械目録表を発行

二代島津源蔵

初代島津源蔵が明治27年(1894年)12月8日に55歳で世を去った後、長男・梅治郎は二代島津源蔵を襲名、所主となりました。25歳で家督を相続し、理化学器械製造にかける初代の熱意も継承して、弟の源吉、常三郎とともに家業を企業として発展させ、現在の島津グループの原型を作り上げました。

大正6年(1917年)9月1日に島津製作所が株式会社に改組した時には、初代社長として二代島津源蔵が就任しました。


昭和5年(1930)には、東京帝国大学の鈴木梅太郎博士や真珠の人工養殖に成功した御木本幸吉氏、本多光太郎氏らとともに日本十大発明家のひとりに選ばれ、同年12月11日に宮中での晩餐に栄を浴しました。

企業家であるとともに発明家であり続け、「日本のエジソン」とも謳われた二代島津源蔵が生涯に生み出した発明考案件数は、国内外12カ国にわたり178件に及びました。

二代目 島津源蔵訓語「事業の邪魔になる人、家庭を滅ぼす人」

二代目 島津源蔵

初期のX線写真

島津製作所においてX線写真の撮影に成功したのは、明治29年(1896年)10月10日で、レントゲン博士がX線を発見してから11ヵ月後のことでした。

わが国にレントゲン博士がX線を発見したとの報告が届くと、京都では第三高等学校の村岡範為馳教授が研究に着手。電源設備のある島津を実験場にあて、村岡教授、糟谷宗資助手、そして二代島津源蔵と弟の源吉が実験を行いました。

真空管を天井からつるし、写真乾板を枠に入れ、桐箱に入れた銀貨を乾板上において起電機を回転させてみると、数十分後にうっすらとX線像が映し出されました。

この研究を通して、二代島津源蔵はX線装置製造に関する知識や技術を習得。1897年には教育用X線装置を製作し、販売を始めました。

初期のX線写真

蓄電池の製造に成功

二代島津源蔵は、当時輸入に依存していた蓄電池の試作品を京都帝国大学理工科大学の依頼で1897年に製作しました。パイオニア精神に燃える源蔵にとって、蓄電池の研究は闘志をかきたたせる研究対象でした。

1904年には、据置用蓄電池の製作に成功し、工場に自家用予備電源として設置しました。

1908年には、島津源蔵の頭文字をとった「GS蓄電池」ブランドで販売を始め、1917年1月17日には日本電池株式会社を設立します。1930年に二代島津源蔵が日本十大発明家のひとりに選ばれたのは、蓄電池原料の鉛粉を作る画期的な発明「易反応性鉛粉製造法」の功績を認められてのことです。

蓄電池の製造に成功

日本初の医療用X線装置を開発

明治30年代後半には大容量の電流が連続的に得られるようになり、X線装置は実用期を迎えました。海外から医療用X線装置が輸入され始め、先進的な病院で受け入れ機運が高まる中、当社も医療用X線装置の研究開発を重ねました。

日本初の医療用X線装置を1909年に完成させ、その2年後には、交流電源を用いた国産最初の大型医療用X線装置を製造して日本赤十字大津支部病院へ納入するなど、日本における医療用X線装置のパイオニアとして黎明期をリードしました。

日本初の医療用X線装置を開発

わが国初のガスクロマトグラフ

昭和28年(1953年)頃から、吸着ガスクロマトグラフ法および分配ガスクロマトグラフ法の研究が急速に進みました。

石油精製プラントの建設が盛んになり始めた昭和31年(1956年)2月に、当社は国産第1号のガスクロマトグラフを完成させました。

さらに、同年9月から本格的なガスクロマトグラフの開発研究に着手しました。 昭和32年(1957年)4月には国産初の汎用ガスクロマトグラフの試作機を日本化学会に出品し、10月に「GC-1A」としてこの装置が発売されると、大学の化学研究室や石油化学業界を中心に爆発的に採用されました。

その後、ガスクロマトグラフは、化学産業の発展とともに広く普及し、昭和40年代になると環境分析にも広く利用され、成果を上げました。

わが国初のガスクロマトグラフ

世界初の遠隔操作式X線TV装置を開発

松下電器産業株式会社(現・パナソニック株式会社)と大阪成人病センターと協力し、1961年に世界で初めて遠隔式X線テレビジョン装置を開発しました。別室で遠隔操作しながら、テレビジョンのモニター画面で透視画像を確認できる画期的な製品です。

医師や放射線技師の被ばく軽減に貢献しました。

世界初の遠隔操作式X線TV装置を開発

モジュラー構造の液体クロマトグラフを日本で初めて開発

当時の日本市場には無かった新しいポンプ方式を導入することで、分析精度や操作性を飛躍的に向上させた液体クロマトグラフを1978年に開発しました。ユニットを組み合わせるモジュラー構造の採用により、多彩な要求に対応できるようになりました。

製薬産業における研究開発活動などに貢献し、当社の主力製品に成長していきました。

モジュラー構造の液体クロマトグラフを日本で初めて開発

国産初のトリプル四重極型液体クロマトグラフ質量分析計を開発

質量分析計のリーディングカンパニーとして、2010年に国産初のトリプル四重極型液体クロマトグラフ質量分析計を開発しました。

優れた分析性能によって、新生児マススクリーニングや血中の薬物動態モニタリングなど、臨床分野にも活用の場が拡大しています。

国産初のトリプル四重極型液体クロマトグラフ質量分析計を開発

日本初の乳房専用PET装置を開発

国内初の乳房専用PET装置として2014年に開発した「Elmammo」は、全身用PET装置と比較して解像度は約2倍、感度は約10倍という検査能力を有しています。 乳房の圧迫による痛みは無く、小さながんの発見も期待できるようになりました。

2017年に発売した後継機「Elmammo Avant Class」は、胸壁部分に生じやすいブラインドエリアを縮小した製品です。

日本初の乳房専用PET装置を開発