学芸員モノ語り

「軽気球試検之図」を入手しました(2)
―京都での飛揚とその記録―

 1909(明治42)年8月21日発行の『日出新聞』には、60歳になった中田寅吉がインタビューに応じて当時の様子を回顧しています1。その内容によると、気球は水素気球であり、仙洞御所と大宮御所の間と、大宮御所の廊下の2ヶ所を使って約1年間を要して製作されたようです。その際、水素の製造を任されたのが初代源蔵でした。気球を浮かせるためには、純度の高い水素が大量に必要です。初代源蔵は舎密局で学んだ化学の知識を用いて四斗樽10個に鉄屑と希硫酸を入れて水素を発生したと伝えられています2。引火爆発の危険性がある水素を安全に取り扱うことは、飛揚成功の鍵を握る重要な任務であったと想像します。
 さて、この明治10年12月6日に行われた軽気球の飛揚は、これまで京都府の科学教育政策に貢献した島津源蔵の偉業として社内外で語られてきましたが、この飛揚に関する資料は社内に現存していませんでした。今回、縁あってこの軽気球飛揚の会場観覧の引札と思われる「京都府学務課製造軽気球試検之図」を入手しました。

「軽気球試検之図」
「軽気球試検之図」

 本図の左の真ん中には、「米僊画」の落款が確認できることから、この原画は近代京都画壇で活躍して府画学校の設立にも関わった久保田米僊(1852~1906)が描いたものであることがわかります。右下には「明治十年十二月三日出版御届/同年同月四日刻成発兌」「京都博覧会社蔵版」「製画兼出版人 村上勘兵衛」とあります。この木版画は、飛揚の2日前である12月4日に発行され、その出版者は村上勘兵衛(11代目か)でした。
 描かれているのは飛揚前の光景であり、図の左側には、容器に詰めた希硫酸を運んだり、水素が送られ膨らんだ気球を縄で引っ張ったりと、慌ただしく準備が進められている様子がうかがえます。樽が連結された水素発生器の近くで指示を出している人物が初代源蔵でしょうか。また、背後には、子供や大人といった沢山の見物客が描かれています。準備の段階で既にこれだけの人だかりがあったのか、それとも、米僊が飛揚の当日の状況を想像して描いたものなのかは明らかではありません。しかし、当日は、番組小学校や女紅場の生徒たちが、大旗を先頭に訓導(先生)に率いられてつめかけており、軽気球の飛揚は大盛況であったようです。また、12月11日の『西京新聞』には、米僊が飛揚の様子を油絵に仕上げていたことが報じられています。
 この京都での成功を機に、全国から科学的思想を啓蒙するために気球を飛揚したいという要望があり、その後、この気球は大阪、兵庫、堺、和歌山、滋賀、岐阜、愛知の諸府県を巡っています。明治11年(1878)1月6日の『大阪日報』には「乗る人は三崎虎吉氏なり。此軽気球の総監督は原田千[欠損](之助ヵ)にて、製造人ハ三崎吉兵衛、機械方ハ嶋津源三」(原文ママ)と書かれていることから、この巡行に初代源蔵も機械方として同行した可能性が考えられます。

1 『日出新聞』では、「山崎清次郎氏方の山崎寅吉氏」と記されています。
2 島津製作所社史には、真ん中の大樽は「洗浄装置」と記されており、純度の高い水素を得るための仕組みであると考えられます。

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