学芸員モノ語り

インタビュー
~二代目源蔵の卒業証書にみる当時の小学校事情~

京都では明治2年(1869)に、番組小学校とよばれる日本で最初の学区制の小学校がつくられました。二代目島津源蔵(幼名:梅治郎)も現在の京都市役所の北側、二条通寺町東入榎木町にあった上京三十一番組  銅駝(どうだ)小学校に通っており、その卒業証書が残されています。

二代目源蔵の卒業証書(明治11年3月) 【展示中】
二代目源蔵の卒業証書(明治11年3月)
【展示中】
銅駝小学校の校舎(明治8年頃)
銅駝小学校の校舎(明治8年頃)

今回は、この頃の小学校事情について京都市学校歴史博物館の学芸員、和崎光太郎さんにお話しを聞きました。

二代目源蔵が通っていた明治10年頃の小学校とはどんなものだったのでしょうか。

「当時の小学校は、現在の小学校とは全く別物と考えてもらった方がいいと思います。まず、小学校の課程が上等、下等と大きく2段階に分かれていました。さらにそれぞれの等が8段階に分かれており、全部で16級あったのです。
また、今の小学校は学年制で、入学して1年たてば自動的に上の学年にあがれますが、当時は等級制で、進級試験に合格した者だけが上の級に進むことができました。一応、想定されていたのは小学校入学が6歳で、1つの級を終えるのが半年でした。」

1つの級が半年だとすると、卒業証書の日付から半年前の明治10年9月に入学したと考えればいいのですか? 当時は秋からの入学も可能だったのでしょうか。

「いえ、級を半年で終えるのはあくまでも目安であり、入学の時期は人それぞれです。当時はまだ、今のような入学・卒業といった概念がなく、個々の判断で学校へ行き、手習い(書き・読み)など必要な勉強が終われば学校を離れていきました。これは小学校に限ったことではありませんが、学校を卒業したことが何らかの資格やメリットになる時代ではなかったのです。実力こそがすべての時代でした。ゆえに小学校で学ぶ期間は、今より非常に短かったようです。」

二代目源蔵も、下等8級を修了したあと、7級には進級したようですが、途中で退学しています。

「明治10年の統計によると、下等7級と8級の在籍者は全体の68.6%を占めており、生徒の3人に2人がこの2つの級に在籍していたことになります。上等在籍者に至っては全体の0.8%でごく限られた生徒だけでした。ですので、二代目源蔵さんは、当時の最もスタンダードな小学校生活を送ったと言えるでしょう。」

最後に、卒業証書についてですが、名前の漢字が梅郎と間違っており、年齢にもずれがあるのですが…。

「よくあることです。今日のように、きっちりしていたわけではありません。むしろ、当時は近代化が急速に進展していた時であり、数年先がどうなるかわからない、流動的な、希望にあふれた時代でした。そんな時代だからこそ、二代目源蔵さんのような発明家が誕生したのでしょう。」

今まで、1年余りしか小学校に通っていない二代目源蔵の境遇を特別だと思っていましたが、当時としてはごく一般的なことだったのですね。実力主義という当時の教育が、2代目源蔵の実学を重んじる姿勢を育んだのかもしれません。貴重なお話しをありがとうございました。

参考文献
京都市小学校創立三十年紀念会編『京都小学三十年史』(1902年)
上野磯治郎編『銅駝尋常小学校沿革史』(1934年)
国立教育政策研究所編『日本近代教育百年史 第三巻 学校教育1』(1974年)
和崎光太郎「京都番組小学校の創設過程」(『京都市学校歴史博物館研究紀要 第3号』所収、2014年)
和崎光太郎「京都番組小学校にみる町衆の自治と教育参加」(『地方教育行政法の改定と教育ガバナンス』所収、2015年)

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