学芸員モノ語り

西生洲町という所

資料館の外壁に「上京區木屋町通二條下ル西生洲(いけす)町」と住所の書かれた古い看板が残っています。実はこの西生州町、町なのに一軒のみ、つまり当館だけの町名なのです。

ここが、西生洲町と呼ばれはじめたのは寛文後期頃(1670頃)からで、その由来は、「開地の始め高瀬川の支流を作り之を引用して魚族を放養する所とし、傍ら之を販売す。土俗生洲と云う。後ち廃して町称に存す。」と『京都坊目誌』にあります。資料館の前の道、木屋町通の真ん中には当時、生州があり、その西側に位置するところからこう名付けられたようです。町から南にかけて高瀬川筋の一帯には、この生洲(生簀)に川魚を飼い料理する店が立ち並び、なかには座敷に生洲を設ける店もあって鰻・鱧・鯉を名物にたいそう賑う京都名所の一つでした。

生州(生簀)料理屋の様子 『都名所図会』
生州(生簀)料理屋の様子 『都名所図会』

創業者の島津源蔵が、この地に移り住んだのは万延元年(1860)です。長男の二代目源蔵、弟の源吉、常三郎もここで生まれました。その後60年間近く、住まいや本店としてこの場所を拠点にしていたことからも、一之船入の側であるこの地の利が、島津製作所の発展に大きな影響を与えたことは言うまでもありません。後に生洲は埋め立てられ、明治28年(1895)には路面電車が走り、大正9年(1920)、運河としての役割を終えますが、こうした高瀬川の移り変わりを、島津の人々は我が事のように見守っていたことでしょう。

今、周辺に往時を偲べる雰囲気はわずかにしか残っていませんが、この度、古文書などを基にして忠実に再現された三代目高瀬舟が、その歴史を伝え続けようとする人々の心を映し出してくれています。

参考文献
『寛文後期洛中洛外之絵図』(寛文後期(1670頃))
碓井小三郎 『京都坊目誌』(1916)

前に生州跡がある頃の島津製作所
前に生州跡がある頃の島津製作所
新調された三代目高瀬舟 [撮影日:9月25日]
新調された三代目高瀬舟 [撮影日:9月25日]

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