学芸員モノ語り

新島 襄との関わり

NHKの新しい大河ドラマ「八重の桜」が始まりました。ヒロイン八重(1845-1932)は、明治4年(1871)に会津から京都に移り、明治9年(1876)、同志社の創設者新島襄(1843-1890)の妻になります。

同志社英学校の設立と島津製作所の創業は同じ明治8年(1875)であるところから、この時代を共に生き、近代京都の黎明を共に彩った創業者島津源蔵(1839-1894)と新島襄との関わりを追ってみました。

島津製作所が明治15年(1882)に発行した『理化器械目録表』は、前半6ページが約110種類の理化学器械の図版となっています。

理化器械目録表 【展示中】
理化器械目録表 【展示中】

近年の研究によると、版式は銅板刷であり、図版は当時のアメリカの科学器機メーカー、E.S. Ritchie & Sons社のカタログを模したものと推測されています。

実はこのカタログの現物が、同志社大学の資料センターに収蔵されていました。新島襄が元治元年から明治7年(1864-1874)の外遊時に収集し、持ち帰ったものだそうです。新島は明治15年冬頃から数ヶ月程度、神学科の学生に物理学を教授し、また明治23年には同志社ハリス理科学校を開校するなど、理科教育の重要性を理解していました。

残念ながら新島襄と創業者の関係を示す資料は見つかっていませんが、想像を膨らませると、島津源蔵がこのカタログを新島襄から見せてもらい、図版に使用した可能性が十分に考えられます。

カタログからは明治の苦難の京都を多くの人々が支え合い、その再生を願って参画した足跡が垣間見えます。

RITCHIE'S CATALOGUE PHILOSOPHICAL APPARATUS(1868)【蔵:同志社大学資料センター】
RITCHIE'S CATALOGUE
PHILOSOPHICAL APPARATUS(1868)
【蔵:同志社大学資料センター】

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