シェイクスピアは脳科学の夢を見るか?

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人がある動作を行ったり、言葉をしゃべったり、あるいは笑ったり泣いたりするときに、脳のどこが活性化しているのかを見えるようにする技術を「脳機能イメージング」という。この分野でいま注目されているのが、他者との会話やアイコンタクトといった「社会的相互作用」中の脳機能イメージング研究だ。もっともコミュニケーション中の脳をモニターするために、研究室のような限られた環境で行うのはいかにも不自然だ。ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の研究者たちは、島津製作所の新たなテクノロジーを用いて、こうした実験を演劇の舞台上で行なった。

ロンドンのとある劇場。舞台の上では、シェイクスピア劇のリハーサルが行われている。公演初日まであと数日ということもあって、俳優たちの演技には自然と力が入っている。その様子を舞台袖から見つめているのは、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)認知神経科学研究所のAntonia Hamilton教授だ。社会神経科学者である彼女は、もちろんシェイクスピア劇の演出をしているわけではない。Hamilton教授は、舞台上で演技する俳優たちを研究対象とすることで、人間の社会的認知のメカニズム、さらには、自閉症を持つ人たちとの違いについて、新たな科学的知見が得られないかと期待しているのだ。

自閉症は、正確には自閉症スペクトラム障害(ASC)という。スペクトラム(分布)とつくのは、健常者から重度自閉症者まで、はっきりとした境界がなく、虹のように境目が曖昧なためだ。共通するのは、表情を読むことや言葉の裏にある意味を理解するのが苦手なため、社会の中で対人関係を構築していくのが困難なことだ。米国では現在、68人に1人の子供がASCと診断されており1、診断法の改善や、症状を持つ子供たちがこうしたソーシャルスキル(社会技能)を身につける際に手助けになる効果的な手法の発見が急がれている。

いまから5年前、Hamilton教授は自閉症の子供やその家族に演技セラピーを行なっていた監督兼俳優のKelly Hunter氏のことを知り、そのセラピーを見学した。それは、自閉症の子供たちと一緒にシェイクスピア劇の一部を演じながら、他者と視線を合わすなどのソーシャルスキルを学ぶことができる体験ゲームで、自閉症の人の社会認知メカニズムの研究を行っていたHamilton教授は、このセラピーを通じて研究ができるのではないかと考えた。その大きな理由となったのが、島津製作所の光脳機能イメージング装置(fNIRS)だった。fNIRSとは、近赤外光を使用して脳の血中ヘモグロビンの濃度変化を計測するもので、センサーが取り付けられたキャップを被った被験者の脳の働きをモニタリングすることができ、大掛かりな設備を準備する必要もない。彼女はそのfNIRSと舞台俳優を用いてユニークな科学的アプローチを試みようとしていた。

シェイクスピアは脳科学の夢を見るか?

「プロの俳優は、同じやりとりを何度も繰り返すことができるようトレーニングを重ねています。そのやりとりでの脳の活動パターンを繰り返し測定できれば、特定の社会的相互作用を解明するために有効な脳信号を得られると考えたのです」

教授はセラピーを見学して、「演技という脳刺激は、脳機能イメージングを使う実験には最適だと思いました。幸い私はfNIRSを研究しているIliasを知っていたので、『お互いの研究を組み合わせよう』と思いついたんです」と当時を振り返る。

脳科学研究におけるfNIRSの可能性 ~ 臨床研究からASCへの応用期待

「Ilias」とは、UCL医学物理学・生物工学部准教授のIlias Tachtsidis博士のことで、英国医療系公益団体ウェルカム・トラストのシニアフェローも兼務しており、神経科学などの研究分野で光脳機能イメージング装置(fNIRS)の技術開発にも従事している。また、Tachtsidis博士は、ASCへのfNIRSの応用研究を始める前に、すでに臨床研究の分野でもfNIRSの応用の可能性を示していた2

「私が行っているのは『低酸素性虚血症』でのfNIRSを使った研究です。一般的には『出生時仮死』と言われており、出生時に何らかの原因で脳への酸素供給が滞ることで引き起こされる仮死症状を経験すると、脳が重度の損傷を受け、後年、重い神経発達障害を引き起こす可能性があるというものです」とTachtsidis博士は語る。
取り上げた赤ん坊が泣き声を上げないと、分娩室の空気は一瞬にして張り詰める。とにかく、脳に十分な酸素が供給されているかどうかを迅速に判断しなければならない。

「新生児に、青白い、うまく呼吸をしていない、無反応といった症状があれば、医療スタッフはまず出生時仮死を疑います。しかし、診断を下す医師には、脳の状態を直接測定する手立てがないのです」

fNIRSに使われている近赤外線光は、頭皮下約20mmまで到達する。これは脳の活動を測定するには十分な深さだ。脳の中では、酸素を保持したヘモグロビンと、酸素を渡し終えたヘモグロビンで、光を吸収する度合いが異なる。そこで、近赤外線光を当て、その光の吸収の度合いを測定すれば、それぞれのヘモグロビンの変化を計測できる。fNIRSは、不意に活動を停止した脳領域の特定に非常に効果的な研究ツールとして、乳児の出生時仮死などに関する新たな治療方針の研究開発に役立つ可能性があるとTachtsidis博士は考えたのだ。そして、さらに新しい試みとして、今回のようなASCを持つ子供たちのための活用にも期待されている。

ASCを持つ人たちの社会的認知を定量的に評価するうえで、脳機能イメージングが有用であることは、すでに複数の研究例が示している。しかし、磁気共鳴画像診断法(fMRI)をはじめとする他の脳機能イメージング技術の多くは、理想的とは言えない状況で被験者を観察する必要がある。

「fMRIでは、被験者を地下の研究室へ連れて行き、測定用スキャナの中に入ってもらい、ベッドの上でじっとしていてもらう必要があるのです。これは脳の活動を見るうえで非常に不自然な環境と言わざるを得ません。また、閉所が苦手でスキャナに入れないという方もいるため、fMRIはすべての人たちに有効とはいえないのです」とTachtsidis博士は言う。

一方、島津製作所のfNIRSはポータブルな装置で、研究室の外での測定も可能だ。脳活動の測定と同時に、別のデバイスで血圧や心拍数、体温などのバイタルサインも測定できる。LIGHTNIRS(ライトニルス)*は、コンパクトサイズで軽量であるため、計測の自由度が高く、じっと横たわることなくごく自然に人々がやりとりしている動作の最中の脳活動が観察できる。

研究設備のくびきを断ち切る圧倒的なポータビリティ

「LIGHTNIRSは、研究用途のポータブル光脳機能イメージング装置としては、もっとも進んでいるといっても過言ではないでしょう」とTachtsidis博士は言う。

「脳活動の指標となる血中ヘモグロビンの濃度変化を計測するには、少なくとも2つの波長が必要です。この装置は実に斬新で、3つの光波長を使用しており、波長が多いほど計測の精度は向上します」

これまでfNIRSの技術開発と島津製作所との協業に携わってきた博士は、こうした性能の高さは驚くに当たらない、という。

「研究者仲間では、島津製作所はよく知られています。このテクノロジーの製品化に成功した、最初の企業の1つですから。これはイノベーションに対する島津の姿勢を物語るもので、顧客の要望に常にチャレンジして製品開発をしてきたことがわかります」

LIGHTNIRSは、ヘッドウェアとキャリーバッグで構成されている3。ヘッドウェアは子供から大人まであらゆるサイズにフィットするフレキシブルな構造で、プローブの位置も計測したい部位に合わせて調整できる。こうした機能で、舞台の上で動きまわる俳優でさえもfNIRSの計測対象とすることができたのである。
こうしたHamilton教授のこの実験的な取り組みを価値あるものとするには、実験データの再現性(繰り返し測定したデータの精度)が不可欠だ。Tachtsidis博士と島津製作所は、データ収集・解析を行い、データの信頼性の検証に取り組んでいる。

シェイクスピアは脳科学の夢を見るか?

ユニークな取り組みの先に

「この実験では、やりとりを再現性のあるものにする必要があります。俳優に同じシーンを8~10回演じてもらうことで、脳の活動パターンを把握するのに十分なデータが得られるわけです」とHamilton教授は語る。

俳優が演技で同じ行動を繰り返す能力に長けていることを活用し、Hamilton教授は特定のやりとりにおける脳活動をデータベース化して、ソーシャルスキルに課題を抱えた人々の脳にみられるパターンを特定するための基礎として活用したいと考えている。

Hamilton教授は、自分のアプローチはユニークなものだ、と言う。「私が知る限り、観客の前で脳機能イメージングのデータを収集した人はいませんから」とはいえ、教授の目的は一貫している。

「やりとりや受け答えの一つひとつが、どう脳の活動に影響するかを観察することで、自閉症の子供たちが、より安心して他者と交流できるようになるための行動療法の発見に貢献したい、それが私たちの目標です」

  • * LIGHTNIRSは、研究用ポータブル光脳機能イメージング装置です。研究用途にのみ使用可能です。医薬品医療機器等法に基づく医療機器として承認・認証等を受けた機器ではありませんので,治療診断目的にはご使用になれません。

参考文献

  • 1 Baio, J. et al. Prevalence of Autism Spectrum Disorder Among Children Aged 8 Years - Autism and Developmental Disabilities Monitoring Network, 11 Sites, United States, 2014. MMWR Surveill Summ 67, 1-23, doi:10.15585/mmwr.ss6706a1 (2018).
  • 2 Bale, G. et al. Oxygen dependency of mitochondrial metabolism indicates outcome of newborn brain injury. J Cereb Blood Flow Metab, 271678X18777928, doi:10.1177/0271678X18777928 (2018).
  • 3 Pinti, P. et al. Using Fiberless, Wearable fNIRS to Monitor Brain Activity in Real-world Cognitive Tasks. J Vis Exp, doi:10.3791/53336 (2015).
  • * 本記事は当社WEBコンテンツ「MOMENTUM」に掲載された「Science and Shakespeare」を日本語訳したものです。また、本記事内における人物の所属団体および肩書等の情報は、インタビュー実施時点(2019年5月)のものです。
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株式会社 島津製作所 コミュニケーション誌