VOL.51 表紙ストーリー
「あなたはいつも利用している駅の階段、あるいはもっと身近な自宅の階段の段数を覚えていますか」
1888年3月20日の夜、ベーカー街221Bを訪ねたジョン・ワトソンに向けて、家の主人が発した問いかけです。
久しぶりに訪れて来た友人ワトソンの順調な新婚生活ぶりや医者の仕事を再開したこと、先週ずぶ濡れの災難にあったこと、さらには新妻に「クビにしたい」とまで言わせる使用人メリー・ジェーンの存在までも、一瞥しただけで言い当てた名探偵は、ワトソンに「どうしてわかった!?」と問われ、答えの代わりにこの質問を返しました。
シャーロック・ホームズは『ボヘミアの醜聞』の冒頭で、「見ている」ことと「観察」の違い、そして「観察」が推測に欠かせないものであることを説いています。
図星を指された幸せ太りのワトソンの例に限らず、人の行動から遥か宇宙での出来事に至るまで、あらゆる事象にはさまざまな痕跡が推測の手掛かりとなって残されます。
ところが、それを目にしても私たちはそのほとんどを見逃しています。特別な思い入れが無ければ階段の数を数えることはありませんし、スマートフォンのホーム画面にあるアプリ・アイコンの配列を覚えている人は少ないでしょう。その理由は脳のやりくり事情にあったのです。
人が外界から五感を通じて得る情報は1200万bit/秒。そのうち8割ともいわれる視覚情報のなかで実際に脳が処理できるのはわずか126bit/秒ほどで、そのほかの膨大な「見ている」情報はフィルタリングされているのだそうです。生存に関わる最優先の情報以外は、場面に応じた大胆な取捨選択が行われているのです。
ホームズは続く会話のなかで、推測にはもう一つの側面があると話しています。
「データが無いときに理論を組み立てるのは重大な誤りだ。事実に合うように理論を組み立てる代わりに、事実を理論に合うようにゆがめてしまう」。思い込みやバイアスが「見たいもの」を見せ、事実の代わりに自分に都合の良い真実をつくり上げることへの懸念を示しています。
ホームズとワトソンが活躍していた19世紀後半は、科学と工業が主役に躍り出た時代。作者のコナン・ドイルは医学生時代に大きな影響を受けた恩師であり、慧眼の持ち主であったジョセフ・ベル教授をモデルに、この名探偵を生み出しました。
当時と比べると隔世の感がある現代。科学者の傍らではAIアシスタントが観察の目の役割を担っています。
CTやMRIの画像から病変や病名を特定したり、地表のサーモグラフィーから地下の漏水箇所を見つけ出し、衛星写真や地形・気候データからはワインぶどう栽培の最適地をつきとめ、未発見の地上絵や古墳を発見します。
何光年も離れた星に生命や文明の痕跡を見出すこともできます。名画の真贋を判定したり、名画家本人のあずかり知らない「新作」を生み出すことすら可能となりました。
AI時代のいまだからこそ観察眼や洞察力のアップデートは大切です。
表紙の写真を鏡で自分を見るように「観察」してみてください。手掛かりを見て間違った結びつけをしていませんでしたか。