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夢を背負う

Special edition“Twists and turns”

夢を背負う

栄 和人 監督

栄  和人01

世界大会16連覇、個人戦206連勝の記録を持つ吉田沙保里や、リオデジャネイロ五輪で4大会連続の金メダルを獲得した伊調馨など、女子レスリングの強豪選手はほぼ全員この人の教え子。
その教え子たちと競技を世界のトップに押し上げた立役者が栄和人さんだ。
金メダルを獲得した選手たちから肩車されたり、投げられたりしているシーンを覚えている人も多いはず。
コーチや監督として、世界トップレベルの選手たちをどのように育て、その強い絆をどのように築き上げてきたのだろうか?

負けん気と腕っ節を鍛えられた家庭環境

レスリングと関わるようになって40年が過ぎました。競技を始めたのは高校に入ってからなので、決して早いほうではありません。実はそれまでレスリングをよく知らなかったくらいです。
中学までは、出身地の奄美大島で柔道や相撲をやっていました。父も相撲が大好きで、若い頃は島で一番強かったそうです。大会には家族総出で応援に来るような一家で、運動会でも何でもとにかく一番にならなきゃ許されないような環境で育ったこともあり、負けん気はとても強かったです。本当は柔道で高校に行きたかったのですが、体が小さかったので強い高校からは声がかからなかったんです。団体戦で勝つためには体の大きい選手を取ったほうが有利ですから。
でも、同じ体格同士なら絶対に負けない自信があった。そんな時、鹿児島商工高等学校(当時)の樺沢先生が「レスリングをやってみないか」と声をかけてくれたんです。タックルの入り方も知りませんでしたが、1年生の11月に新人戦に出てから卒業まで、練習試合も含めて一度も負けませんでした。

挫折を味わった大学時代

おかげでいろんな大学が声をかけてくれましたが、高校の教師になりたいという思いがあったので、教員採用の実績がある日本体育大学を選びました。
しかし、大学では大きな挫折を味わうことになります。高校では負け無しだったのに、大学の練習では先輩たちに全く歯が立ちません。新人戦では勝てたものの、その後の全日本選手権では、レスリング人生初の負けを味わいました。自分の実力不足とはいえ、ショックでした。当時は部内の上下関係も厳しくて、一時はレスリング部を辞めて教員免許の勉強だけしたいとすら思いました。
そんなネガティブな精神状態だと、試合でも良い結果は出ません。元々、負けん気の強さで勝ってきたようなところがありましたから、気持ちが入らなければ、当然勝てない日々が続きます。1、2年生の頃はそんな具合でなかなか結果が出ませんでした。しかし、3年生になり、学生としてのゴールを意識した時に思い直したんです。レスリングで大学に入った自分が、そのレスリングで結果を残さず、勉強だけしたいというのは筋が違うと。私が日体大に入るにあたって、校長や担任をはじめとした多くの方々が尽力してくださった。それなのに、レスリングで結果を出せないまま諦めて、教員免許だけ取りたいというのは虫が良すぎるだろうと。
そう意識が変わったことで、それからは大会で結果が出るようになりました。4年生の時には全日本クラスの選手に勝つことができ、就職も無事奈良県の教員として採用されました。また、全日本選手権での優勝に続き、世界選手権でも4位に入賞するなど、いろいろな流れが変わっていきました。そこからですね。オリンピックを意識するようになったのは。

オリンピックの〝魔物〟に魅入られる

大学卒業の2年後がちょうどロサンゼルス五輪でしたので、それからは人生をかけて練習に打ち込みました。夜寝付けなかったら「練習が足りなくて疲れていないんだ」と、夜中に着替えて走りに行くなど無茶もしていました。当時は、練習後は興奮していて寝付きにくいものだとか、メンタルな部分には思い至らなかったんですね。
そんなハードな練習を続けていましたから、もちろんオーバーワークになって、その疲れはメンタルにも影響してくる。プレッシャーもこれまでとは比べ物になりませんから、「なんとしても勝ちたい」という思いが、予選の日程が近付くにつれ、だんだん「早く終わってほしい」という気持ちに変わっていってしまいました。しまいに大会直前には「日程がズレてくれないかな」と思うことも。よく〝オリンピックには魔物が棲んでいる〟と言われますが、その魔物を呼び寄せてしまっていたんですね。
当然、選考会となった大事な試合では、良いところなく敗れました。今でも忘れませんが、試合が終わって審判によって相手の手が上げられても、なぜか悔しさが出てこなかったんですね。ほっとした気持ちのほうが大きすぎて。「やっと終わった」と家に帰って布団に入ったところで、急に我に返ったんです。
「代表になれなかったんだ…」
そう思った瞬間、「なんてことをしてしまったんだ!」と布団を振り回して、地団駄踏んで、涙が止まらなくなりました。
「もう1回試合をさせてくれ!もう1回やれば負けるはずがない!」と泣き叫びました。もちろん後の祭りです。
翌日からも知り合いに会えば「残念だったね」と声をかけられます。その度に悔しさというか、なんてことをしてしまったんだという思いが蘇ってくるので、だんだんと外にも出なくなりました。2カ月ぐらい引きこもっていた間には「自分はもう生きている価値がない」と命を絶とうと思ったこともあります。監督からは「練習に顔を出せ」と声をかけてもらいましたが、「今さら何のために練習をするんだ」という気持ちでした。もう人生が終わったくらいに思っていましたから。

〝魔物〟を呼び寄せるのも消し去るのも自分

引きこもり状態から抜け出すきっかけとなったのは、母からの電話でした。父が食事もできなくなり、仕事も手につかず十数kgも痩せたと言います。その時、それを見ている母はどんな気持ちなんだろう、と考えたんです。息子は試合に負けて音信不通になり、夫はそんな状態です。
自然と「父ちゃんに伝えてくれ。出られるかはわからないけど、もう一度オリンピックを目指すから」という言葉が口から出ていました。
電話を切った後、すぐに着替えて走り込みを始めました。もちろん、久しぶりなのでまともに走れません。走ったり歩いたりを繰り返しながら、自分が敗れた原因は何なのか?どうすれば同じことを繰り返さないのか?と考え続けました。そして、トレーニングの量とか質よりも、考え方が甘かったのだと、〝魔物〟を呼び寄せるのも消し去るのも自分なのだ、ということにようやく気付いたのです。
そこからは勝ったり負けたりしつつも、1987年の世界選手権で3位になり、翌年のソウル五輪で念願の代表になることができました。ただ、代表になったことで安心してしまったのか、本番の五輪では4回戦で負けてしまいましたが……。自分はそこまでの選手だったということでしょう。結局のところ、意識や考え方が甘いという意味では、小心者なのだと思いました。

2人の〝人生の師〟の導きで女子レスリングの指導者に

次のオリンピックを目指す気持ちはあったのですが、翌年にはウイルス性肝炎を患い入院。1カ月間ICUで面会謝絶という重症でした。一般病棟に移った後も、退院まで2カ月ほどかかりました。その間、自分と向き合える時間がたっぷりあったので、改めて今後の人生についていろいろと考えました。今は教員をしているが、本当にそれでいいのか、自分がやりたいことは何なのかと。
そこで、やはりレスリングの指導者になりたいと考えるようになりました。自分では届かなかったオリンピックの金メダルを獲れる選手を育てたい。その思いを日本レスリング協会の福田富昭会長に相談したところ、「これからは女子の時代だ。近いうちにオリンピック種目になるし、女子の指導をしてみないか」と言われ、京樽に入社し、女子レスリングのコーチをすることになりました。
しかしその後、女子はなかなかオリンピック種目にならない。業を煮やして現役復帰したりする中で声をかけてくれたのが、中京女子大学(現至学館大学)の谷岡郁子学長です。附属の高校から7年間を通して指導をしてみないかと提案され、高校の教員をしながらレスリング部のコーチをすることになりました。
恩師と呼べる人は何人もいますが、人生を大きく変えた〝人生の師〟だと思うのは福田会長と谷岡学長のお二人ですね。

学生は途中で辞めさせてはいけない

至学館のコーチになって、まず入ってきたのが伊調馨でした。うちに下宿させ、高校まで送り迎えもしながら指導しましたが、当時はよく泣いていましたね。そこに大学から姉の伊調千春や吉田沙保里、小原日登美も入ってきた。リオで金を獲った土性沙羅や登坂絵莉、川井梨紗子は高校生の頃から見ています。
社会人と学生の指導で一番違うのは、学生は途中で辞めさせてはいけないということです。もしレスリングが強くならずに学校を辞めるようなことになったら親御さんに申し訳が立たない。しかし、レスリングで入った子の多くは、レスリング部を辞めた場合、学校も辞めてしまいます。そういう意味で責任は重大です。でも、責任を背負ってやらなければ結果は出せません。
それはオリンピックや世界選手権も同じだと思います。多くの人から期待されることはプレッシャーになりますが、逆にそれだけのものが背負える選手だから期待されるということでもある。世界レベルの大会でメダルを獲るような選手は、背負ったものを力に変えていける人が多いですね。

夢を背負うということ

選手を育てるのに重要なのは、その選手に対する思いがどれだけあるかだと思います。好きな人とは会うのが楽しみだし、いつまでも一緒にいたいと思いますよね。私は普段から選手たちと一緒に生活し、練習をともにして、居残り練習も最後まで見届けます。そこまでするのは選手のことが好きだからだし、日々成長していく選手と一緒にいるのが楽しいからです。そこまでしてでも結果を残してほしいという強い思いがあるからこそ、選手もその思いに応えようと一生懸命練習する。それが彼女たちが結果を残している理由の一つだと思います。
もちろん、最初から全てうまくいったわけではありません。はじめの頃は辞めてしまった子もいました。厳し過ぎた私に直接「辞めたい」とは言えず、卒業後に辞めてしまった子もいたようです。でも今は、学校生活の途中で辞めたいと言ってくる子はいません。選手たちにとって自分は怖い存在でありながらも、親のような存在でもある。そんなバランスが最近ようやく取れてきたのかもしれません。一つ言えることは、選手としてはマイナス要素だった私の小心者な部分が、指導者としてはプラスに働いているかもしれないということです。小心者な分、選手の小さな変化に気付いて指導することができますから。
選手たちには、目標を明確にするようにと言っています。目標を立てて、その実現のためには何が必要かを具体的に考えられれば、やるべきことも明確になります。もちろん、うまくいくことばかりではありません。でも、試練があるのは成し遂げようとしているものがあるから。それはスポーツに限らず、仕事でも、なんでも同じだと思います。挫折したら、そこからまた目標を立てればいい。うまくいかない時は、それをどう受け止めるか、正直に自分と向き合えるかが大切です。やる前から「できるか、できないか」を心配するよりも、まず背負ってみる。私は「夢追い人」という言葉が好きです。それは「夢を背負う人」という意味でもあると思っています。
2020年の東京五輪で、女子は全階級金メダルという目標を立てています。それだけのものを背負う覚悟は、私も選手たちもできています。

日本レスリング協会女子強化委員長

栄 和人(さかえ かずひと )

1960年6月19日生まれ。鹿児島県奄美市出身。鹿児島商工高等学校(現樟南高等学校)よりレスリングを始め、高校3冠、公式戦無敗(大学1年の全日本選手権まで116連勝)などの実績を残す。日本体育大学体育学部に進学し、83年の全日本選手権優勝、87年の世界選手権で銅メダルを獲得、88年ソウル五輪出場。96年より至学館大学および至学館高等学校のレスリング部コーチ・監督を務め、多くの金メダリストを輩出。2008年より日本レスリング協会女子強化委員長に就任。