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「背負うということ」

Special Edition “情熱の継承”

「背負うということ」

小久保 裕紀

小久保裕紀01

現役時代の通り名は“ミスターホークス”。
グラウンド上での力強いプレーはもちろん、チームの精神的支柱として類まれなるリーダーシップを発揮してきた小久保さんは、ミスターの名にふさわしい活躍を繰り広げてきた。
引退後、40代前半にして野球日本代表の侍ジャパン監督という大役に就任。
野球技術を極めたプロたちが集う日本代表をまとめ上げるために、小久保さんはいかなるリーダーシップを発揮しようとしているのだろうか?

監督未経験で侍ジャパンを指揮

「侍ジャパンのトップチームの監督に小久保裕紀が就任へ」
2013年夏、スポーツ紙上をそんなニュースが賑わせました。当の本人である私も、この話は報道で知ったのですが、胸の内には“まさか”という思いしかありませんでした。
なにしろ現役を引退してからまだ1年も経っていません。新米の野球解説者としてベテラン監督に戦術の質問をぶつけるなどして、ベンチワークについて学び始めたばかりでした。そんなレベルの私がプロ野球のトップ中のトップ選手が集う侍ジャパンを率いるなど、常識では考えにくいことです。
もちろん大変なプレッシャーで、交渉開始後も迷いがあったのも事実です。しかし、人生は思いも寄らないことが起こるもの。19年間のプロ野球選手生活においても、何度も想定外のことが起こりました。そういうときこそ怖気づいて逃げてしまうのではなく、チャレンジした方が、結果が付いてくるものです。腹をくくって代表監督を引き受ける決心をしました。
心がけたのは、自分自身に『ないもの』をねだるのではなく『あるもの』をしっかり伝えていこうということ。監督としての経験はありませんが、現役時代に培ってきた野球スタイルや考え方、経験などは伝えていくことができますし、その点を評価されての抜擢なのだと思います。
例えば、キャプテンとして現場をまとめた経験などもその一つかもしれません。ホークスではもちろん、3年間、所属したジャイアンツでも、生え抜き以外で初めて主将に就任する機会に恵まれました
決して自分でリーダーになりたいと思ったわけではありません。ただ、人の後ろをついて歩くのではなく、自分で道を切り開いていきたいというタイプだったので、こういう結果になったのでしょう。
引退後、各業界で活躍されている様々なリーダーと話をしましたが、最初からその立場を目指したのではなく、気づいたら輪の中心にいたとおっしゃっています。リーダーという役割は「なりたい」からなれるのではなく、普段の生き方の流れの中で自然と巡ってくる。そういうものなのかもしれません。

尊敬される集団でなくてはならない

現役時代から私は、「野球って素晴らしいものなんだよ」ということを広く世間に理解してもらうことが、野球人としての重大な使命だと考えていました。その点もまた、私が侍ジャパンの監督に選ばれた大きな理由の一つなのだと捉えています。
かつて侍ジャパンのトップチームは、試合があるたびに編成されていましたが、私の就任と同時に常設されることとなりました。しかも、12歳以下のU-12代表からU-15、U-18、大学、U-21、社会人、トップチームまでが同じユニフォームを着て、世界一を目指すことになる。となると、トップチームのプロ野球選手は、すべての世代の野球人から尊敬される存在でなくてはなりません。自分の技術を極めるだけでなく、野球を目指すすべての人のお手本となるような立ち居振る舞いが求められるのです。
私がそうした視点を身に付けられたのは、恩師であり、ホークスを長年にわたって率いた王貞治元監督のご指導の賜物です。王さんからは常々、「チームの鏡となれ」「若い選手の目をしっかりと意識してプレーしろ」と言われ続けてきました。その教えを守って、率先して練習で声を上げるなどしてチームを引っ張ってきたつもりです。
「ファンに夢を与える」という視点も王さから学んだこと。若かりしとき、ファンに対してネガティブな姿勢を取ろうとした際、王さんから厳しく注意を受けたものです。

一瞬に生きる

現役時代を振り返ると、413本塁打、2041安打という成績を残すことができた一方で、怪我などで戦線を離脱することが多く、チームのメンバーには迷惑をかけてしまいました。デッドボールで骨折をしたのは3回。肩の怪我もありましたし、長くスランプに悩まされたこともあります。
そのたびに私は体を鍛えるのはもちろん、心の鍛錬に力を入れてきました。とりわけ読書を通して人生の活路を見出すことが多かったですね。様々な本を読みましたが、船井幸雄さんの著書にあった「人生に起こることには何一つ無駄がない、必然で必要だ」との言葉には大きな感銘を受けました。怪我をしたことも無駄ではない―そう考えるとグラウンドに立てない自分を素直に受け入れられて、前を向くことができました。
 2003年のオープン戦では、ホームに突っ込んだ際に本塁上で捕手と交錯して右膝を痛め、その年のシーズンをまるまるリハビリに費やすことになりました。非常に大きな怪我だったことから、捕手のブロックのやり方に批判が集まりましたが、私は彼を恨んだりはしませんでした。彼は精一杯、やるべきことをしただけ。もし、あのとき誰かを恨んだりしたら、リハビリに集中することはできなかったかもしれません。復活を果たすことができたのも、人生には無駄がないとの精神で、すべてを受け入れる自分がいたからなのです。
 大怪我をした前年シーズンにメンタル・トレーニングの一環として瞑想を取り入れましたが、その際に出会った「一瞬に生きる」という言葉もリハビリ時の励みとなりました。この言葉には「今、取り組んでいる物事に対して全身全霊をかけているのか」「先の不安、過去の失敗を恐れて、最高の状態で取り組んでいないのではないか」といった問いかけが込められています。
 リハビリをしているとき、1日、1日の成果はまったく感じられません。しかしながら、その瞬間のトレーニングをしっかりやらないと1年後の完全復活はあり得ない。自分を鼓舞するためにも「一瞬に生きる」は素晴らしい言葉でした。
現役引退した今、余計に一瞬を意識するようになっています。選手としてグラウンドにいれば否が応でも打席に立ち、相手投手との一瞬の勝負がやってきます。今はなかなかそういう場面に遭遇できませんが、だからこそ、一つひとつの出会い、仕事を大切にしなくてはならないと思わされています。

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初めての真剣勝負に挑む

代表監督となった今、再びグラウンドに立って一瞬にかける日が戻ってきました。監督デビュー戦となったのは2013年の台湾代表との3連戦。全勝という成績を収めることができたものの、監督としては反省点しか思い浮かびません。あの時はコーチ陣に助けられただけ。私は選手のように一喜一憂してしまい、広い視点で先を考えられずにいたのです。その後、何試合かを戦いましたが、台湾戦の反省を踏まえて監督としての有り様を試行錯誤してきました。
そして、2015年秋、いよいよ代表監督として初めてのガチンコ勝負に挑みます。野球の世界ランキング上位12ヶ国が雌雄を決する「プレミア12」が、11月に日本と台湾を舞台に開幕するのです。侍ジャパンの初戦は札幌ドームでの韓国戦。以後は台湾を舞台にアメリカやドミニカといった強豪国と戦い、準決勝から再び日本に戻るという日程です。 WBCで日本が優勝したときは、アメリカで決勝が行われましたが、今回は日本開催だけに優勝する姿を国内のファンに見せることが可能です。野球をいっそう盛り上げるために、侍ジャパンは勝ち続けなくてはならないと決意を新たにしています。
選手たちは相当なプレッシャーを背負うことになるでしょう。私も大学生の時にバルセロナ五輪の代表としてプレーをしました。あの時を思うと「怖かった」の一言に尽きます。野球にはミスが付き物とはいえ、万が一、自分のミスでメダルを逃してしまったらと考えると怖くて仕方がありませんでした。
 今の侍ジャパンは若い層が多いので、真剣勝負で日の丸を背負った経験が少ない選手も多くなっています。あの独特の緊張感の中でいかにパフォーマンスを発揮するか。それにはコンディショニングが重要な意味を持ってきます。
コンディションを整えるには、トレーニングの考え方を変えなくてはなりません。私の現役時代のトレーニング方法で言えば、9月までしっかりウェイトをして、蓄えた筋力を日本シリーズのある10月で一気に消費して、オフに入るという流れを過ごしていました。今後、侍ジャパンの試合は秋に組まれていくことになりますので、選手たちにも11月いっぱい筋力を維持できるようなスケジューリングを呼びかけています。
10月末に行われる日本シリーズに出場するチームならば疲労は残るにせよ、調整はしやすいかもしれません。しかし、4位以下となり9月末でシーズンを終えた選手は、本番まで1か月半もの長い時間が開きますので、調整は非常に難しいものがあるでしょう。それでも、心配はしていません。事実、過去の代表戦ではどの選手もきっちりと体を作ってくれました。これも代表を常設したことで、選手の意識が高まった結果ではないでしょうか。
代表の常設による効果は、思わぬところでも表れました。去年のドラフトで1.2位指名を受けた選手の多くが、「将来は侍ジャパンのトップチームに選ばれたい」と抱負を述べてくれたのです。侍ジャパンを率いる者として非常に嬉しい思いに包まれました。
 契約上、2017年のWBCまでは私が侍ジャパンを率いることになっています。それまでに代表の選手選考などのルールなどをしっかりと整備するなどして、確固たる基盤を築いた上で、次の方へバトンタッチできれば幸いです。
 2020東京オリンピックでは再び野球が種目に組み込まれる可能性が出てきました。WBCや五輪の舞台で侍ジャパンが活躍すれば、野球の発展、普及、底辺拡大などにつながるはずです。多くの方々に、侍ジャパンのメンバーたちが輝く場面を見ていただけるよう頑張りたいと思っています。

小久保裕紀(こくぼ ひろき)

小久保裕紀(こくぼ ひろき)

1971年10月8日生まれ。和歌山県出身。和歌山県立星林高等学校、青山学院大学を経て、94年に福岡ダイエーホークスに入団。2年目にしてホームラン王、4 年目で打点王に輝くなど、早くから主軸として活躍してきた。2004年から3年間は読売ジャイアンツに所属した後、2007年から福岡ソフトバンクホークスへ復帰。12年の引退までに413本塁打、1304打点、2041安打を記録。翌13年秋、野球日本代表である侍ジャパンのトップチーム監督に就任した。